『人形町 笹新』
~王冠とあざみの酒場放浪記~
川本三郎氏のエッセイ『居酒屋の至福』に
「都内の居酒屋ベスト3を挙げろといわれたら、ためらうことなくYとUとSを選ぶ」とある。
森下のY、門前仲町のU、人形町のS
このイニシャルだけで、どこの居酒屋のことか直ぐに判るのであれば
あなたは立派な吞兵衛である。
大袈裟と酷評されようが、わたしは「酒飲みの流儀とは茶道の作法にあたる」と考える。
茶道とは「おもてなし」と「しつらえ」の美学であり
「和敬清寂(わけいせいじゃく)」の精神と解かれるが、
居酒屋もしかり、
特に『人形町 笹新』は、その美学が、鍛え抜かれた吞兵衛の魂に突き刺さる。
そもそもは大正4年創業、建物続きの『新川屋佐々木酒店』が、昭和45年に始めた居酒屋。
現在で三代目ということだが、初代が新川の酒問屋に務めていたことから、
酒店の屋号は『新川屋』である。
また、中国の故事に由来して、酒は「竹葉(ちくよう)」
日本的な表現で「竹の葉」であり、
それが室町時代から宮中に仕えた
女官(女房にょうぼう)の間で使われた始めた女房詞(にょうぼうことば)では
「ささ」とも言われるようになった。
(例:時代劇などで「ささを持って参れ」)
つまり、『笹新』の「ささ」は酒を表わしている。
さて、ピンとした暖簾をくぐる。
見渡せば、店内のしつらえが隅々まで磨かれ清らかなこと。
ちゃらいアルバイトなんぞは居ない。
50年以上の歴史が漂い、もはや映画のセットのような完成度だ。
独り長いカウンターに姿勢を正して座り、
料理人と仲居と自分の呼応が整うのを待ちながら、壁に掲げられた肴の札を吟味する。
旬の物、本日のおすすめ、定番。決して「ご飯のおかず」ではなく、
江戸時代から変わりなく庶民に愛されてきたであろう如き酒の肴である。
旬の物は来る度に違う。逃してはいけない。
『マツモとめかぶの酢の物』『菜の花と白魚の卵とじ』『青柳とわけぎのふきのとうみそ』
注文を通したら、用意する料理人の包丁捌きに目を見張り、
その、大きいのに器用な手に感心しつつ、季節ごとにちょうどの温度の日本酒を傾ける。
食材を敬って最適に計らわれた肴が頃合いよく供出される。
誰かが『すずきと白子の揚げ出し』を頼む。すると「こっちもね」「俺も」と続く。
乗るなら今でしょ。「わたしも・・・」
そうして、気が利いていてすべてが程よく、旨い肴に舌鼓を打ち、
隣に座った一期一会の人と、天気の話などを一言二言会話する。
ああ、これを至福と言わずして、何と言う。