湊っ子ちゃん

連載小説「Kimagure湊だより」第4話釆女橋はふたつの西洋文化がであう橋

第4話 采女橋はふたつの西洋文化がであう橋 

 

 

 ついに、冬の決戦!

 中央区観光検定の日だ。

 昨日の夜まで、みっちりと勉強した。「歩いてわかる中央区ものしり百科」もしっかり読みこんだし、今年のテーマについても、思いつくかぎりのことを調べた。だから、きっと、大丈夫…。

 それでも、考えれば考えるほど、まだ調べておけることがあったような気もして、きゅうに心細くなったりする。あたまのなかで、あれはこうだったかな、これはこうだったかな、とぐるぐると考えをめぐらせているうち、今までわかっていた箇所が、とつぜん真っ白になったりして、あわてて「歩いてわかる中央区ものしり百科」を開いたりする。

 するとそこへ、黄色い小鳥ちゃんがやってきた。窓は、小鳥ちゃんがいつでも入ってこられるように、すこし開けている。この季節は、ちょっと寒いけど。

 おはよう、と私たちはいう。

「あら、まだ勉強しているの?」

「勉強っていうわけじゃないんだ、ちょっと、確認していただけ」

 私は、言い訳をする。

「出発の朝は、あたふたしないで悠然とかまえるのが一番よ」

 そういう小鳥ちゃんに、

「うん、そのとおりだね」

 と言いながら、私はページに顔を近づけて、ものすごい速さで文字を追う。

 黄色い小鳥ちゃんは、くすくすっと笑った。

 私はふと顔をあげ、

「ごはんにしようか」

 と、笑顔をかえす。

 トーストを焼いて、コーヒーを入れる。小鳥ちゃんには、小皿にミルクを入れてあげる。たっぷりのフルーツにサラダ、トーストにはバターを塗って。

 まるいテーブルの上で、小鳥ちゃんと一緒に朝食をとる。

 部屋のなかはぬくぬくに暖められている。そこへ、小鳥ちゃん用にすこし開けた窓から、ひんやりと冬の風が入り込んでくる。これも、なんだかいい。

 すると、不思議なことに、あたまのなかで散らかっていた史跡名所の名前や、神社の神様、お祭や町名の由来なんかが、それぞれの場所に整理されてゆく感じがした。

 うん、やるっきゃない!

 そう思って、深呼吸をすると、黄色い小鳥ちゃんが私を見ていた。

「ファイト!」

 と、黄色い羽根を空にかかげた。

 

 連載小説「Kimagure湊だより」第4話釆女橋はふたつの西洋文化がであう橋

 会場の、コートヤードマリオット銀座東武ホテルまで、黄色い小鳥ちゃんを肩にのせて歩いた。

 湊から歩道橋をわたって、明石町に入ると、築地カトリック教会が見えてきた。居留地中央通りと、居留地通りの交差点に、このあたりが外国人居留地だった明治時代の、ガス灯と煉瓦塀が残っている。

 そして私は、足をとめ、何度も読んだその案内板を、またじっくりと読みかえす。

 安政5年、日米修好通商条約を結んだ日本は、函館、新潟、横浜、神戸、長崎を開港し、東京と大阪を開市した。明治元年、いまの明石町一帯に、築地外国人居留地が定められる。

「ところが、はじめのうちは、あまり人が集まらなかったのよね」

 と、黄色い小鳥ちゃん。

「うん。明治5年に、新橋‐横浜間に鉄道が開通すると、外国の商人たちは築地外国人居留地にはとどまらずに、日帰りで横浜に帰っちゃったんだよね」

「そこへ進出してきたのが、キリスト教の宣教師や、医師だったのね。しだいに、教会やミッションスクールが建ち並び、異国情緒ただよう町並みが誕生したのよ」

「いいね、そういうの憧れちゃうな!」

 周辺の入船、湊、築地あたりは、居留地に隣接していることもあり、外国人向けの店も多かった。東京ではじめて食パンが焼かれたのも、革靴が日本ではじめて作られたのも、いまの入船3丁目だ。

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 聖路加国際病院の、聖ルカ礼拝堂の十字架が、朝日を浴びている。いつの時代も、明石町のランドマークとして、人々に親しまれてきた。

 居留地中央通りをまっすぐ行く。旧築地市場の立体駐車場に出会った。ここは、築地ホテル館があった場所だ。

「明治元年に開業したのよね。今のはとば公園のあるところは、まさに波止場で、横浜からの船がついたのよ。外国の商人たちは、そこで船を降りて、最初に目にするのが、この築地ホテル館だったそうよ」

 2代目清水喜助の設計で、左右対称の建物の中央には塔屋があり、そこに鐘をつるして、瓦葺きの屋根、なまこ壁の外装、客室は102室もあった。絵に描いたような美しいホテル、と称され人々の注目を集めたそうだ。

「各部屋にはベランダがあって、海を望んでいたんですって」

「その頃は、隅田川の河口付近は、大きな大きな海原だったんだろうね…」

 私と黄色い小鳥ちゃんは、うっとりとする。

 しかし、完成してからほんのわずか、明治5年、銀座の大火によって、この築地ホテル館は消失してしまった。まるで夢のように…。

 

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 築地場外市場をかすめて、晴海通りを歩いてゆくと、そこはもう東銀座だ。

 東劇の大きな看板が目に入ってくる。とちゅうで、うらの路地に入ってみる。社会教育会館にでるまで、ごく細いその道には、マンションやビルや飲食店などがところ狭しとひしめいている。

 建物に日が遮られて、なんとなく淋し気な道なのだけれど、どこか不思議な印象を与える道でもある。それは、マンションのベランダの欄干が、曲線的でお洒落だからか、または表通りの喧噪がうそのように遠のくからか、それとも、海がちかいからか…。それらすべてを、外国人居留地の名残りと言ってしまえば、素直にそう思える。

ひろい道にでて右へ曲がると、采女橋にさしかかった。

「釆女橋って、あまり渡ったことなかったな…。うねめ、って読むんだよね?どういう意味なんだろう…」

 橋詰広場には公園があって、区立築地川采女橋公園、と名づけられている。公園の前に、橋の由来碑があった。私と黄色い小鳥ちゃんは、腰をかがめてふむふむ、と読む。

 江戸前期に、このあたりには松平采女正のお屋敷があったそうだ。享保9年に大火があってからは、ここは火除け地になって、”采女が原”と呼ばれていたそう。

 下を流れるのは築地川で、もっとも、いまは高速道路になって車がびゅーびゅー走っている。その頃は、ちょうどここで築地川がカーブして、その景色は美しかったそうだ。

 明治に入ってからは、銀座煉瓦街と築地外国人居留地をつなぐ位置にあることから、いちはやく西洋の香りが漂っていたという。

 そこへ、なにやらお洒落な鳩が、ステッキをついて橋を渡ってきた。シルクハットのような帽子をかぶり、こわきに新聞を抱えている。

「♪ 昔恋しい 銀座の柳~」

 と、歌っている。

 私と黄色い小鳥ちゃんは、あっけにとられてそれを見ていた。

「あっ、失礼」

 と鳩は言って、それから

「いま歌っていたのは、『東京行進曲』ですよ。『銀座の柳』の出だしは、♪植えてうれしい銀座の柳~ です。みなさん、よく間違われますから」

 はぁ…と、私と黄色い小鳥ちゃんは、よくわからずにうなずいた。

「わたくし、銀座煉瓦街から歩いてきました。あなたたちは?」

 と、お洒落な鳩は、首をかしげて私たちを見上げた。

「湊から、明石町、築地をとおって来ました」

 そう答えると、ぷるっぷー!と鳩は鳴いた。

「素晴らしい!あなたたちは、築地外国人居留地から来て、わたくしは、銀座煉瓦街から来た!」

 私と黄色い小鳥ちゃんは、顔をみあわせる。

「なんて素晴らしいんでしょう! 采女橋でであう、ふたつの西洋文化ですな!」

 と、そっと目を閉じて、こんどはちいさく、ぷるっぷーと鳴いた。なにかとても、感動しているようだ。

 采女橋の欄干には、築地ホテル館と銀座の柳の模様がデザインされている。

「もしかして、これですか?」

 私は、そっと声をかけてみる。

 鳩は片ほうの目だけをあけて、私と黄色い小鳥ちゃんを見ると、

「銀座通り沿いの煉瓦街は、明治6年に完成しました」

 と、気どった素振りで言った。

「たしか、銀座の大火のあと、火事につよい不燃都市をつくろうと、当時の東京府知事、由利公正がスローガンを掲げたんですよね? 設計は、お雇い外国人トーマス・J・ウォートルスでしたっけ」

 私は、「歩いてわかる中央区ものしり百科」の何ページ目かを思いうかべる。

「さようでございます!85基のガス灯が銀座通りを灯し、夜を昼に変えた!と人々の目を釘づけにしました。まさに文明開化を象徴する美しい洋風の町並みが完成したのです!街路樹にははじめ、松や楓、桜が植えられましたが、すぐに枯れてしまって、柳を植えたところ、すっかり根づいたんですね」

 ところが…と、お洒落な鳩は、すこし気落ちしたように下をむいた。

「せっかく完成した煉瓦街でしたが、日本人の体質には煉瓦の家はどうも合わなくて、まったく人気がありませんでした…」

 そこへ!と、鳩はいきおいよく顔をあげ、

「新聞社が進出してきたのです!しだいに雑誌社や広告社などもあつまり、銀座はいっきに、最新情報を発信する、時代の最先端をゆくまちになったのです。わたくしも、じつは新聞社に勤務しておりました」

 え~!と、私と黄色い小鳥ちゃんがおどろくと、お洒落な鳩は、

「わたくし、伝書鳩でございます!」

と、ウインクした。

「日本ではじめて伝書鳩がニュースを届けたのは、明治28年のことです。東京朝日新聞が、いちはやく伝書鳩を採用したのです。記者さんが現地まで鳩と一緒に行って、取材して書いた記事を、通信筒に入れて、鳩にたくして飛ばすのです。わたくしたちは何十キロ、何百キロという距離を飛びました。雨に打たれながら、強い風にさらされながら、太平洋を越えたこともありました。ただ、このニュースを伝えたい、その一心で…」

 お洒落な鳩は、涙ぐんだ。

「現代でいう、インターネット通信の役目を、鳩さん方がになっていらしたのですね」

 と、黄色い小鳥ちゃんは丁寧に話しかけた。

「さようでございます!いちばん多いときで、東京朝日新聞では300羽の伝書鳩が働いていました。横浜、千葉、八王子の支局とは、伝書鳩の定期便があって、毎日2回鳩が往復していました。写真機が乾板からフィルムになってからは、写真も運べるようになりました。もちろん、ほかの新聞社でも、おおくの伝書鳩が活躍していましたよ!」

 そして、お洒落な鳩はため息をつくと、

「しかし、時代は変わったのです…」

 と言った。

「昭和36年頃から、伝書鳩は姿を消しました。通信技術がいちだんと高まり、鳩の仕事を、機械がやってしまうようになったのです。わたくしたち伝書鳩の功績を称える碑を、朝日新聞東京本社さんが作ってくださいました。築地に移るまえ、本社のあった、有楽町マリオンのなかに、伝書鳩のブロンズ像があるらしいです」

 そうなんですね…と、私と黄色い小鳥ちゃんは、しんみりとした。

 

 連載小説「Kimagure湊だより」第4話釆女橋はふたつの西洋文化がであう橋

 お洒落な鳩は、パタパタと飛んで、欄干のうえにとまった。

「そこに、精養軒(せいようけん)があったのを、ご存知ですか?」

 と、羽根を采女橋の向こうにむけた。ちょうど由来碑のある橋詰広場の、向かいだ。右岸上流側、というのだろうか。いまは、きれいな大きいビルが建っている。時事通信社、と書いてある。

「いまの、上野にある精養軒の、いちばんはじめの本店が、ここだったのです」

「そうなんですか?」

 私と黄色い小鳥ちゃんは顔を見あわせる。

「明治6年のことです。姿を消した、築地ホテル館のあとを引き継ぐように、外国人のための宿泊施設もそなえた、本格的西洋料理店が誕生しました。客室は12室、瓦葺きの寄棟造りの屋根をもった洋館で、堂々とした門構えに、前庭には松が植えられていました。人力車や馬車が采女橋通りを往来し、異国の風を感じさせたものです」

 そして鳩は、胸をふくらませると、

「それでも、ここに開業するまでには、長い苦難の道がありました…」

 と、思いを馳せた。

「精養軒の生みの親、北村重威が、築地3丁目の古い料亭”香雪軒(こうせつけん)”を手にしたことから、この物語ははじまります。

 明治3年頃のことです。ガス灯も、もちろん電気もありません。ろうそくの灯りだけがぼんやりと、漆黒の闇にとざされた夜のまちに、障子を透かして溶けだしているきりの、そんな遠い昔の出来事です。

 香雪軒は、名古屋料理を出す店で、文人墨客に親しまれていました。同じならびには、イリス商会が店を構えるなど、異国の香りが漂っていました。築地3丁目15番地といいますから、采女橋たもとの左岸上流側になりますね。

 ところがこの辺り一帯は、その後軍艦操練所の用地として召し上げられてしまいます。しかたなく、すぐそばの三十間堀にかかる一の橋、のちの木挽橋のたもとに、店を移しました。当時は木挽町5丁目といいました。そこで、銀座の大火が起こるわけです。

 精養軒も、焼けてしまいました。そこで翌年、采女橋の右岸上流側、そうです、ここにうつり、大きく発展を遂げたのです!」

 お洒落な鳩は、ふっと空をみあげ、

「どんなときも、精養軒は采女橋から離れることはなかったのですね…」

 と、感慨深そうに言った。

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「ところで、精養軒の料理長に招かれたのは、ドイツ系スイス人、チャリ・ヘスでした」

「もしかして、チャリ舎のチャリ・ヘスさんですか?」

 私が身をのりだすと、鳩はぷるっぷー!と鳴いた。

「さようでございます!チャリ・ヘスは、東京ではじめて食パンを焼いた人なんです。明治7年、いまの入船3丁目にお店を構えました。チャリ舎の食パンの皮の味は、格別でしたよ~。その後、築地5丁目にシャンペンサイダーとパンの工場を作って、毎朝ロバに箱車をひかせ、お客様のところまで、パンを届けていました。素敵ですねぇ!」

 と、鳩は食パンの匂いをかぐみたいに、目をとじて鼻をうえへ向けた。

「居留地に住む外国人のお宅や、西洋料理店、それから聖路加病院にも届けていたんですよ。チャリ舎のあとにも、この頃からパン屋がどんどんできてきました」

 そうそう…と、鳩は人差し指をたてる。

「精錡水という名の目薬をつくって、銀座に店を構えた岸田吟行は、ヘボン博士に学んだそうです。そのヘボン博士が、横浜の外国人居留地に診療所を開いていたとき、患者さんにパンとミルクを与えたそうですよ。やっぱり、栄養価が高いので、パンを食べた患者さんは、みるみるうちに回復したそうです。

そんなこともあり、築地の軍艦操練所の海兵たちも、パンを食べていたそうです。これは、銀座で名を馳せる木村屋の、二代目木村英三郎が、まだ試行錯誤を重ねていた頃、あまったパンを惜しみなく送ったことによるものです。さらに、東京慈恵会医科大学の創始者、高木兼寛は、海軍の兵士たちが脚気にかかる割合が少ないことに目をつけて、やはり患者さんに、パンをすすめた、というお話が残っています」

「このあたりは、”パン食文化発祥の地”とも言えますね!」

 私と黄色い小鳥ちゃんは、感心してうなずいた。

 もっと言ってしまえば…と、鳩はもったいぶったようにこちらに目を向ける。そして、

「東京でいちばんはじめにパンを焼いたところは、どこだと思います?」

 と、きいた。私たちは、う~ん…と考える。すると、

「築地ホテル館なのです!」

 と、お洒落な鳩は、ステッキでポン、と地面を鳴らした。

「フランス人料理長ルイ・ベギューが、フランスパンを焼いたのが、東京におけるパンの歴史のはじまりなんです!」

 え~!すごい!と、私と黄色い小鳥ちゃんは、うしろにのけぞった。

 そのとき、私ははっとする。

「あっ、いけない!遅刻しちゃう!」

「おや?どちらへ?」

 と、不思議そうにするお洒落な鳩。

「これから、中央区観光検定なんです!」

 私は言いながら、矢も楯もたまらず走りだした。走りだして、ふと、立ちどまって、もう一度振り返る。お洒落な鳩が、こちらを見ていた。

「ありがとうございます!」

 私は、ぐっと頭をさげる。すると鳩は、

「がんばってね!」

 と、帽子を空へかかげ、ぐるぐると振りまわした。

 

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 試験が終わって、会場をでると、黄色い小鳥ちゃんが、ラウンジでミルクを飲みながら待っていてくれた。

「おつかれさま!」

 と、黄色い小鳥ちゃん。

 私は、いますぐに確認したいことや、またさらに考えを深めたことなどで頭がいっぱいで、黄色い小鳥ちゃんを見るやいなや、べらべらとしゃべりだした。

「ねぇ、永代通りをまっすぐ行ってさ、亀島川に架かる橋につきあたるっていうんだけど、その橋ってなんだっけ?あれだよね、あの橋だよね?ほら、こないだ渡ったやつ」

 と言ったかと思えば、

「築地カトリック教会の外の柱は、あれはドリス式だよね?ドーリアでもいいの?ドリスとドーリアって違うの?」

 と言ったかと思えば、

「靍護稲荷があるのって、GINZA SIXだよね?さっき、そば、歩いたよね?」

 と、次から次へと言葉があふれだして、止まらない。

「はいはい」

 と、黄色い小鳥ちゃんは、しかたなさそうに笑った。

 それで、私もふっと肩の力をぬいて、ちょっと安心した。

「あとは神様にまかせるにかぎるわ」

 と、黄色い小鳥ちゃんは言う。

 うん、と私はうなずく。

 

 黄色い小鳥ちゃんと、歩いて帰る。

 采女橋を渡ると、さっきよりも太陽の位置が高くなっていて、キラキラと陽気な昼の気配が満ちていた。

 すると、さっきのお洒落な鳩が、采女橋の欄干に腰かけて、新聞を読んでいた。私たちをみつけると、

「おかえりなさい!」

 と、帽子をもちあげ、会釈した。

 私と黄色い小鳥ちゃんは、笑顔をかえし、並んで一緒に歩きだした。

「ここが、”活字発祥の地”ですよ!」

 とちゅう、お洒落な鳩は案内してくれた。そこは、采女橋からこちらに来て、晴海通りを渡って、築地川からすこし奥へ入った、背の高いビルのあいだにはさまれた路地だ。

「明治6年に、平野富二はのちの東京築地活版製造所を、この地でおこし、活字や活版印刷機械の製造、販売をはじめるんです。もちろんこれは、銀座煉瓦街に、新聞社がおおく集まったことに由来しますよ」

 と、鳩は誇らしげに言った。そういえば、と私はおもいだす。

「いまも、湊や入船には、印刷屋さんがたくさんあります」

 するとお洒落な鳩は、嬉しそうに羽根をふくらませた。

「素晴らしい!昔は、あの辺りから銀座の新聞社に歩いて勤めにでた人がたくさんいたんですよ。みなさん、印刷の技術を習得すると、古い活版印刷機を手に入れて、自宅で印刷屋さんをはじめたのです。印刷するものは、事務用品が多かったそうですね」

「すると銀座から築地、入船、湊と、このあたりは”印刷文化発祥の地”と言えますね!」

 私と黄色い小鳥ちゃんが両手をたたくと、鳩は、ブラボー!と言った。

 

 

「なんだか、パンが食べたいね!」

 私と黄色い小鳥ちゃんは、どちらからともなくそう言い、パンを買って帰ることにした。

「さっきの鳩さんが言っていたとおり、采女橋は、ふたつの西洋文化をつないでいたんだね」

 と、私は、おおきな包みを抱きしめる。

「それも、生まれたての西洋文化をね!」

 包みのなかは、焼きたての甘いパンだ。

「築地外国人居留地も、銀座煉瓦街も、はじめの目的がうまくいかなかったことで、独特の文化が生まれた点では、おなじだね。そのおかげでこのまちの歴史が、ずっとずっとおもしろくなった!」

「築地外国人居留地は、商取引のために用意した場所に、ぜんぜん人が集まらなくて、そのかわり教会やミッションスクール、病院が建ち並んで、魅力的なまちになったわ。

 銀座煉瓦街も、日本人の生活スタイルや体質には合わなくて、住みたがる人が少なかったかわりに、新聞社が集まってきて、時代をリードするまちになったのね」

 と、黄色い小鳥ちゃん。

「どんなことも、はじめからうまくなんて、いかないんだね」

 私は思う。それに、うまくいかないからこそ、ストーリーが生まれるような気もする。まちを輝かせるものって、そういうストーリーなんじゃないかな。

「なにがいいか、なんて、あとになってみないとわからないものよ」

 黄色い小鳥ちゃんは言った。

「わたしたちは、とにかく、いまは歩きつづけるしかないわ」

「うん、そうだね」

 私たちは、築地外国人居留地を戻りながら、もういちど、お洒落な鳩の言っていた言葉を思いだす。

「采女橋は、築地外国人居留地と、銀座煉瓦街、ふたつの、生まれたての西洋文化がであう橋なのです!」

 そして、そのであいは、パンのこうばしい香りで包まれている。

 

つづく

 連載小説「Kimagure湊だより」第4話釆女橋はふたつの西洋文化がであう橋

 

♪ 参考文献 「歩いてわかる中央区ものしり百科」中央区観光協会/「東京はじめて物語 銀座・築地・明石町」清水正雄 六花社 平成10年刊/「ハトの大研究」国松俊英 PHP研究所 2005年刊/「パンの明治百年史」 パンの明治百年史刊行会 1970年刊

 

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中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第122号 令和3年4月13日