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銀座の1街区は60間(京間)x60間と言われるけど、本当?

将軍「徳川秀忠」が慶長16年(1611)に江戸の海岸線に舟入掘りを掘る計画を発表し、天下普請工事を発令したことが『御府内備考』に記述されています。秀忠は慶長17年に老中安藤対馬守を駿府の家康のもとに派遣し、実施の決済を受けました。

同時に日本橋の金座の責任者であった、家康の実子である「後藤庄三郎光次」に「江戸新開」の土地の町割り=都市計画を命じています。「江戸新開」の範囲は南北方向は日本橋南詰から銀座八丁目、東西方向は東は楓川、西は外濠の間です。江戸前島が対象となります。

寛永期の街区構成は?

寛永期の街区構成は? 銀座の1街区は60間(京間)x60間と言われるけど、本当?

江戸の城下町建設において、町人地は「四方京間60間の正方形街区」によって基本的に構成されています。これは京都で発展した町割りの形式を採用したと考えられます。

明暦の大火後、大通り沿いの西側の街区や道路には大きな変化は見られませんでしたが、以下の2項目の変化が見られました:

1) 町屋式の奥行が最大1間減じて19間となった。

2) 京間8間の「裏通り」が新設された。

この際に実行された都市計画は明治6年の沽券図でも残っていて、日本橋・銀座に見ることができます。ここで言う「表通り」とは中央通り(銀座通り)を指し、当初は火除け地として真ん中に会所地が設置されていました。1ブロックは正方形で、京間60間x京間60間の正方形と言われています。

江戸時代の都市計画を見ると、江戸間と京間が混在しており理解を誤る恐れがありますので、細心の注意を払い計算しました。

尾張町2丁目(現銀座6ブロック)で京間60間x60間を確認

尾張町2丁目(現銀座6ブロック)で京間60間x60間を確認 銀座の1街区は60間(京間)x60間と言われるけど、本当?

【計算の前提条件】

1. 中央区沿革図集に掲載されている明治6年の沽券図(尾張町2丁目=現銀座6丁目)で、町屋敷の敷地の大きさ(坪数)を積算をしてみました。沽券図とは現在の不動産登記簿謄本のようなもので、添付の図のように所有者名・不動産の住所・坪数・不動産価値(両)=売却価格(目安)が書かれています。

坪数は半端な数字になっていることから、京間を江戸間に変換した値という推測をしました。従って1ブロックの大きさが京間60間x60間を確認するには、まず江戸間の坪数を京間の値に変換する必要があります。

2. 日本橋・銀座の大店は慶長年間当時間口4間x奥行約20間(京間)と言われているので、基本的にこの数字を採用しました。熈代勝覧を見ると、店舗によって4間であったり4.6間であったりする例があるので奥行20間を基本とします。但し明治6年の沽券図は明暦の大火以降ですので、奥行き19間に設定しました。

3. 京間と江戸間の寸法・坪数は以下のようになっているので、これで京間・江戸間の数字の変換をしました。

  京間1間=1910mm、江戸間1間=1760mm
    京間1坪=3.64㎡、江戸間1坪=3.3㎡

4. 裏通りの道幅は京間で8間と仮定して計算しました。

【分析結果】

尾張町2丁目ブロックの町屋の積算坪数は京間換算で3,728坪でしたので、正方形であると仮定すると一辺=61.06間となります。正確な測量技術を持たない時代ですから、60間x60間という値はほぼ正しいことが判りました。

沽券図に基づき1軒毎に敷地サイズを計算して縦横の寸法を算出しましたが、

* 坪数が書かれていない敷地があること

から一部不確実な数字を使わなければならなかったため、積算して得られる縦横の寸法は63.76~65.72間でした。坪数積算から算出した上記数字は誤差の範囲と判断しました。

銀座4丁目(現銀座4ブロック)でも確認

銀座4丁目(現銀座4ブロック)でも確認 銀座の1街区は60間(京間)x60間と言われるけど、本当?

銀座4丁目の街区が接する晴海通りは、昭和15年(1940)開催予定の万博に合わせて道路幅が拡幅されましたが、それ以前は他の街区同様京間60間x60間になっているはずです。その確認を行いました。

坪数の積算で正方形の一辺を計算すると、京間63.4間

町屋敷の坪数から間口を計算して得られた値は、60間~63.2間

になっており、予想通り1区画=京間60間x60間の誤差の範囲内に入っていることが確認されました。

参考図書:

1) 江戸時代の基準尺度について   藤本強

2) 江戸町人地における土地所有変動の地域的差異 中藤 淳

3) 中央区沿革図集(京橋編)

4) 明治初期の銀座煉瓦街建設における江戸の都市構造の影響に関する研究  岡本 哲志 岡本哲志都市建築研究所