【遠足シリーズ第38弾】アメリカ総領事ハリスと在外公館今昔
こんにちは。アクティブ特派員のHanes(ハネス)です。
国際社会となった現代、各国に置かれた在外公館(大使館・総領事館・政府代表部等)は、外交を行う上で重要な拠点となるとともに、在外外国人をサポートするなくてはならない存在となっています。
外務省の「駐日外国公館リスト」によると、2022年4月29日時点で中央区内には4カ国の駐日大使館・名誉領事館がありますが、明治時代において、築地居留地を含む明石町周辺に9カ国の公使館と9カ国の領事館があったことは、実はあまり広く知られていません。(* 公使館・領事館については、記事本文の最後で補足しています。)
しかし、それらの公使館・領事館の中で唯一よく知られているのは、アメリカ公使館です。
明石町内にはその名残があり、今回改めて訪問してみました。
「アメリカ公使館跡」の案内板
そもそもアメリカ公使館は、いつ、どのくらいの期間築地に置かれたのでしょうか?
聖路加レジデンスのそばにある「アメリカ公使館跡」の案内板ならびに川崎氏*によると、下田開港後、以下の場所に公使館が置かれたといいます。(*参考文献・ウェブサイトを参照のこと)
安政3年(1856年) 現・静岡県下田市柿崎の玉泉寺に開設
安政6年(1859年) 現・港区元麻布の善福寺に移転・開設
文久3年(1863年) 火災により横浜外国人居留地に移転
明治7年(1874年) 築地居留地内のこの地に公館を新築、はじめて形容を整える
明治23年(1890年) 赤坂の現在地(アメリカ大使館)に移転
つまり、1874年からの約16年間、築地居留地にアメリカ公使館が置かれたということになります。
北川氏*によると、当時の外観は、木造2階建てで、居留地の多くの建物に見られるようにクリーム色のペンキ塗りの洋館だったようです。
さらに庭は広く、季節の花で花壇が美しく、珍しい西洋の花も植えられていたようです。
公使館が赤坂に移って132年。
今では築地・明石町界隈の様子もすっかり変わりましたが、案内板の他にもアメリカ公使館に関するものがあるのです。
トイスラー記念館に向かって左側の植え込みに記念碑があります。
聖路加国際病院トイスラー記念館の前には、アメリカ公使館跡に残されていた小松石の記念碑のうち3個が設置されています。
向かって左から、五稜の星、アメリカの国鳥である白頭鷲、盾形の星条旗が刻まれており、星条旗に確認できる13の星は、同国初期の13州を表しています。
また、聖路加ガーデンレジデンス東側には、五稜の星と盾型の星条旗の2個の記念碑が残されています。
ウォーキングやランニングで隅田川テラスを利用する際に立ち寄ってみてはいかがでしょうか?
かつて、築地居留地にアメリカ公使館があったことを確認したところで1つ疑問がわいてきました。
そもそも、日本にアメリカ公使館が置かれるようになったのはどうしてでしょうか?
ご存じの方も多いかと思いますが、それは、開国が関係しています。
遡ること1853年、ペリー率いる黒船が浦賀沖に現れ、日本に開国を迫ります。
翌年には日米和親条約が締結され、日本は200年以上の鎖国に幕を下ろすこととなります。
その条約は12条からなり、そのうちの1つに、「下田と箱館の2港を開き、下田への領事の駐在を認めること」が明示されていたのです。
玉泉寺入口
これにより、入港する船が見える現・下田市柿崎の玉泉寺に日本最初の総領事館が開設され、総領事のタウンセンド・ハリス、彼の秘書・通訳を務めたオランダ人のヒュースケン、中国人召使らが2年10ヶ月ほど駐在することとなったのです。
その後の安政5年(1858年)には、日米修好通商条約が調印され、横浜の開港が決定。
翌年5月には下田の総領事館が閉鎖され、ハリスは江戸・善福寺に開設された公使館へと移りました。
本堂と「牛乳の碑」
苦労の末に開国・開港が実現し、総領事のハリスは万事順調かと思いきや、体調を崩したことがありました。
異国で怪我をしたり、病を患ったりすると、通常よりも不安になりますよね。
そんな時に彼が求めたものは牛乳でした。
しかし当時の日本では、まだ牛乳や牛肉を口にすることが一般的ではなく、入手することも困難を極めました。
最終的にはなんとか高価で牛乳を買うことができ、牛乳の効果もあってか、体調が回復したと言われています。
築地居留地にも牛乳を販売する「耕牧舎」(芥川龍之介の生誕地)がありましたが、渋沢栄一らによって会社「耕牧舎」が作られたのは明治13年(1880年)、それが居留地に設立されたのが明治16年(1883年)と明治時代になってから。
ハリスは文久2年(1862年)に帰国していることから、彼の駐在時に牛乳は普及しておらず、生活の面で苦労も多かったことと推察されます。
ハリス顕彰記念碑等
玉泉寺の敷地内には、ハリス記念館、米国総領事旗掲揚之地、ハリス顕彰記念碑などもあるのですが、実はハリス顕彰記念碑は、昭和2年に中央区にもゆかりのある渋沢栄一(子爵)によって建立されました!
碑には、ハリスが下田上陸翌日に日記に記した「開国は真に日本のためになるだろうか」という自問も刻まれています。
ハリスは、自国の利益のみならず、開国間もない日本の発展も心にとめていたのではないかと言われています。
また、この碑の除幕式のために、87歳という高齢の栄一も2日がかりで下田を訪れました。
公益財団法人 渋沢栄一記念財団によると、栄一はハリスの問いへの答えとして、「封建的専制から立憲国に、また資源乏しい国ながら産業・貿易も盛んになったのは、ハリスのお陰」と述べたといいます。
明治維新前後の変革の時代を生きた先人たちのおかげで、今の日本があるのですね。
築地居留地に置かれたアメリカ公使館の歴史を紐解くことで、ハリスと栄一の関係について思いがけない発見があったほか、当時の在外公館の担った役割がいかに重要であったかを改めて知ることができました。
今後明石町を散歩する際には、他の国の在外公館の名残がないか気をつけて見てみようと思います!
築地居留地に開設された公使館・領事館情報
公使館:ペルー(居留地31-32)、オーストリア(居留地31-32)、ハンガリー(居留地31-32)、朝鮮国(南小田原町3-10)、スペイン(居留地24)、フランス(居留地24)、築地居留地廃止後に、アルゼンチン(居留地51-53)、スウェーデン(居留地24)、ブラジル(居留地27)。
領事館:英国(南小田原町4-4/居留地16)、オランダ(南小田原町4-2)、ポルトガル(南小田原町1)、米国(不明)、北ドイツ連邦(のちのドイツ、居留地23)、スペイン(居留地31-32)、ペルー(居留地31-32)、スイス(居留地5、51-52)、チリ(明石町8、のちに7)。
中央区立京橋図書館の屋外展示(2022年5月4日撮影)
築地居留地の在外公館に詳しい川崎氏*によると、領事館の大部分が名誉領事で、職業領事官を派遣せず、商人などを名誉領事に任命していたそうです。
さらに清水氏*によると、「領事は本国人でないこともあり、1人が2カ国の領事をかけ持つ場合もあった」のだといいます。
当時の名誉領事の生活はどのようなものだったのか、この当時から日本人が外国の名誉領事に就任することはあったのか、次々と疑問がわいてきます。
詳しく分かり次第、ここでご紹介できればと思います。
参考文献・ウェブサイト
【参考文献】
川崎晴朗『築地にあった米国公使館』川崎晴朗,2001年.
川崎晴朗『築地外国人居留地:明治時代の東京にあった「外国」』雄松堂,2002年.
北川千秋『築地居留地今昔』聖路加国際病院礼拝堂委員会,1986年.
清水正雄『東京築地居留地百話』冬青社,2007年.
築地居留地研究会『築地居留地:近代文化の原点 Vol.1』亜紀書房,2000年.
【参考ウェブサイト】
一般社団法人 日本乳業協会「乳と乳製品のQ&A」
https://nyukyou.jp/dairyqa/2107_242_329/(2022年4月29日閲覧)
公益財団法人 渋沢栄一記念財団「渋沢栄一ゆかりの地ー伊豆へ - ハリス記念碑の除幕式」
https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/yukarinochi/topic/J-0644.html(2022年5月3日閲覧)
瑞龍山 玉泉寺
https://www.izu-gyokusenji.or.jp/(2022年4月29日閲覧)
中央区「中央区民文化財6 アメリカ公使館跡の記念碑(あめりかこうしかんあとのきねんひ)」
https://www.city.chuo.lg.jp/smph/kusei/syokai/tyuobunkazai/americakoshikanatonokinenhi.html(2022年4月29日閲覧)
American Center Japan「米国大使館の歴史」
https://americancenterjapan.com/aboutusa/usj/1234/(2022年5月3日閲覧)