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八丁堀の『写楽』の住居跡

中央区観光協会特派員ブログとしては、ブログ名「湊っ子ちゃん」が令和元年12月13日に「中央区の歩道っておもしろい!八丁堀鈴らん通り」で東洲斎写楽をご紹介していますが、今回は写楽についてのみ補足させていただきたいと思います。

江戸名所図会で有名な江戸考証家・斎藤月岑(げっしん)は天保15年(1844年)「増補浮世絵類考」の中で、「写楽、天明寛政3年中の人 俗称斎藤十郎兵衛 江戸八丁堀に住す 阿波候の能役者也 号東洲斎」との記述を残しています。この月岑の記録から、写楽・斎藤十郎兵衛説が有望でしたが、生没年が不明で人としての輪郭が不明でした。平成9年徳島市の「写楽の会」が法光寺の過去帳の中に斎藤十郎衛兵に関する記載を発見し、写楽・十郎兵衛説を証明しました。法光寺は浅草御坊の末寺として創建され、明暦の大火後築地に移転した後300数余年の歴史をかさね、平成5年に越谷市に再移転した浄土真宗の寺院です。

法光寺の過去帳には次のような記述があります:。

「辰3月7日、釋大乗院覚雲居士 八町堀地蔵橋阿洲殿御内、斎藤十郎兵衛事 行年58歳 千住にて火葬」

これにより古来から言われてきた写楽・斎藤十郎兵衛説が実証され、信ぴょう性が一段と深まりました。

古図の考察

古図の考察 八丁堀の『写楽』の住居跡

日本橋川の支流”亀島川”と現さくら通りとの交わるところには「亀島小橋」がありましたが、これが現在「新亀島橋」となっています。亀島小橋からさくら通り経由で西に行くと、江戸時代には地蔵橋がありました。この橋の袂に『写楽住居』があったと言われています。現在「やきとり宮川」があり、隣に雑貨の「赤札屋」があります。赤札屋の南隣の細い道を左折した所にあたります。説明版も碑も全くありません。是非写楽住居跡を訪問し、数多くの浮世絵と共に往時を思い出してください。