月島から小笠原諸島へ
小笠原諸島といえば「おがさわら丸」が何と言っても有名ですが、ここ中央区内から小笠原に運航している船があるというのを知りました。
その名は共勝丸。上の写真は月島ふ頭に停泊中の共勝丸をつい先日撮影させていただいたものですが、今年1月から運航を開始したピカピカの新造船です。運航会社(オーナーでありオペレーターでもある)の名前も(株)共勝丸といいます。
実は先月、東京湾汽船の記事を書いた際に写真を提供していただいていた森田裕一さんが所長をつとめる会社で、遅ればせながら、そのときのお礼かたがたインタビューに伺ったという次第です。
森田さんは小笠原育ち。長年の小笠原村役場勤務を経て現在の仕事に就かれました。(財)小笠原協会の理事もつとめておられ、また、東京や大阪の水運の歴史にも非常にお詳しく、次から次へと興味深いお話が続いて、気が付くと2時間近くもお邪魔してしまっておりました(^^)
共勝丸/(株)共勝丸のご紹介
(この項は主としてwikipedia・日経新聞によります)
(株)共勝丸は宮城県石巻市にある会社です。宮城ではさほど知られた会社でも船でもないようですが、小笠原の人々なら「誰でもみんな知っている」くらい有名な名前。
何しろ1968年の小笠原返還以来、幾度も船は代替わりをしながらも、50年以上にわたって小笠原と本土をつないできたという歴史があるのです。客船ではなく貨物船ですが、少しながら客室定員もあります。小笠原に生活物資を届け、帰りには産業廃棄物等を運び出し、緊急時には客室を活用して人も運ぶ。おがさわら丸が定期点検で休航のときには郵便も運ぶという、まさに小笠原にとって「無くてはならない」存在なのです。
2011年3月の東日本大震災のときには、乗組員には大きな被害を受けた石巻出身者も多かったにも関わらず、戻ることなく父島に向かったといいます。なので、25年間も活躍した先代の第二十八共勝丸の老朽引退に際しては、恩義を感じた小笠原村の村長みずから七十七銀行に新造船のための融資を掛け合ったということです。(日経新聞2019/1/30)
小笠原小史
いまでこそユネスコの世界遺産(自然遺産)にも登録された「自然豊かなリゾート」のイメージもある小笠原ですが、ごく最近まで苦難の歴史が続いていました。
明治の初めに日本による小笠原の領有が確定して以来、日本人の定住者が増え始めましたが、1944(昭和19)年、太平洋戦争の激化に伴って、軍人・軍属を除く7000人近い全島民が強制疎開になったのです。戦後はアメリカの施政権下となり、1968年の返還までの実に24年間もの間「歴史が分断」された状態でした。
四半世紀も経ってから旧島民の帰島を促すというのは容易なことではありません。1972年3月までは客船の定期運航も無い状態だったのです。そんな中、帰島運動に大きな力を果たしたのが、「小笠原協会」でもあったのだそうです。(小笠原協会のHPはこちら)
東京の水運史について
共勝丸とは話が変わって、利用者/運用者両方の立場から長年海運に関わってこられた森田さんが、大変関心を持っておられるのが東京の水運史。
江戸から明治にかけ、東京の水運の中心は(現在の)中央区にありました。しかし、十年ひと昔どころか、一年ひと昔のような勢いで変貌を遂げる東京港の中で、百年以上も前の水運の記録を辿るのは大変です。
大阪もまた水の都と呼ばれる都市ですが、大阪の近代水運史については結構詳細な記録が残っているのに対して、東京では、特に明治前期の東京湾内水運に関する記録や画像が乏しいのだそうです。
たしかに、以前東京湾汽船について調べたときも、会社別の水運史でおそらく最も詳しいと思われる「船舶史稿」にすら、『・・・このように航路開設については歴史の波に没した部分もあるが・・(第17巻東京湾汽船小史p.17)』と、ややお手上げ気味の記述も見られました(^^)
そんな中、森田さんは精力的に古書店を巡り、ネットでの出物のチェックも重ね続けた結果、数多くの明治期の船舶写真(の絵葉書)を収集に成功されました。
絵葉書なので撮影年次などの記載が無いものも多いですが、画像の背景に見える建物の配置を古地図と照合し、さらには絵葉書自体の形式(時代によって異なるのだそうです)からも撮影時期を推定しておられました。すごい。そしてそれらの資料を、「中央区のために役立ててください」という暖かいお言葉もいただけました!
今後
小笠原と東京を結ぶ定期航空路や、一時話題になったテクノスーパーライナー(高速船)など、従来の船便以外の運送手段は、賛否両論紆余曲折があって、いまだに実現していません。
なので今後も当分の間は共勝丸の役割が変わることが無いともいえます。心から今後の航海の安全を祈りたいと思います。
※客室は備えているものの客船では無いので、一般の乗船予約は受け付けておりません。念のため。