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『どうする家康』家康生母於大と夫久松俊勝末裔との
明治6年久松小学校創立の不思議な縁!

NHK大河ドラマ『どうする家康』で、家康の生母於大の離縁後の嫁ぎ先、久松俊勝の子孫が久松小学校と繋がりがあったことに気づきました。しかも久松俊勝の改名前の長家が家康改名の「家」の元となっている説があることにも驚きです。

今のところドラマでは、大声で泣く場面の家康に戸惑いましたが、これからはまた違う家康の姿を見たいところです。

松嶋菜々子演じる於大の登場場面が多いせいか、義父である久松俊勝の絡みが強く印象付けられ、久松小学校との縁がこの戦国時代までさかのぼって結びつけるきっかけになったことは私にとっては大きな発見でした。

参考文献『ウイキペディア 於大の方』より於大の方肖像画記載

 

 

於大の嫁ぎ先 久松俊勝【初名 定俊・長家】

於大は1528-1602年74歳の生涯は父水野忠政より、1541年松平広忠に嫁がされ、1543年に家康を産みました。その幸せも長くは続かず、1544年には兄信元が織田氏に従ったため、今川氏との関係を虜した広忠によって離縁されました(諸説有り)

1547年兄信元の意向で知多郡阿古居城の城主久松俊勝に再嫁しました。3男3女もうけました。この間にも家康と連絡を取り合っています。

1560年桶狭間の戦い後、俊勝と於大の3人の息子に松平姓を与え家臣とし、於大を母として迎えました。

1576年於大の兄信元・養子元茂の謀反を疑った織田信長の命により、家康に自害させられ水野家は一時滅亡しました。

於大の夫俊勝は信元を家康に案内したことを後で事情を知って、激怒して隠退してしまいます。

於大は俊勝の死後、菩提寺の安楽寺で剃髪して伝通院と号しました。

1584年小牧・長久手の戦い後、子の松平定勝が羽柴秀吉の養子になる話が浮上しましたが、、強く反対し、家康を断念させました。

1602年高台院や後陽成天皇に拝謁し、豊国神社に詣でて徳川氏が豊臣家に敵意がないことを示しました。

同年家康の滞在する京都市山城伏見城で死去。江戸小石川の伝通院に埋葬されました。

戦国時代では女性は政治の道具として使われていました。於大は戦の中でも強く生き抜き、家康や久松俊勝の子どもたちを守り抜く気骨は、尊敬に値します。

参考文献『ウイキペディア 於大の方・久松俊勝』

明治6年創立久松小学校に献金をした久松氏子孫第16代松山藩主・伯爵久松定謨

明治6年創立久松小学校に献金をした久松氏子孫第16代松山藩主・伯爵久松定謨 『どうする家康』家康生母於大と夫久松俊勝末裔との
明治6年久松小学校創立の不思議な縁!

久松定謨(さだこと)伯爵は1869-1943昭和18年75歳没

松山藩第14代藩主久松定昭死去のため第16代藩主を1872明治5年5歳で本家を継ぐ

1873明治6年久松小学校創立に寄付をする。当時定謨6歳

当然、第13・15代藩主久松勝成は定謨が1882明治15年15歳で元服するまで後見人となる。

常磐会ー久松邸ー1883明治16年創設 定謨16歳フランスに留学

1884明治17年 17歳伯爵を綬尺し、華族となる。

1887明治20年 20歳フランスのサンシール陸軍士官学校歩兵科入学

常磐会ー文京区本郷ー1888明治21年創設 定謨21歳

1889明治22年 22歳卒業

1890明治23年 23歳私費留学フランス陸軍のツール歩兵第66連隊で隊附勤務

1888明治24年 24歳私費留学を終えて帰国。8年間フランスに滞在する。

1895明治28年 28歳台湾征討、帰国

1896明治29年 29歳ロシア出帳

1902明治35年 35歳フランス公使館武官代理・心得

1903明治36年 36歳フランス公使館駐在武官昇格

1906明治39年 39歳帰国

1920大正9年  陸軍中将

フランス陸軍士官学校・陸軍勤務・フランス公使館を12年・台湾・ロシアと外国での生活が長いので、常磐会などは定謨ではなく、後見人としての勝成が明治45年没であるので、関与していてもおかしくはないと思われます。

参考文献【久松͡定謨ウイキペディア】より写真記載

13代松平藩主久松(松平)勝成(かつしげ)は定謨の後見人として久松小学校創立に関わっのではないか

13代松平藩主久松(松平)勝成(かつしげ)は定謨の後見人として久松小学校創立に関わっのではないか 『どうする家康』家康生母於大と夫久松俊勝末裔との
明治6年久松小学校創立の不思議な縁!

久松勝成1832-1912明治45年80歳没

第15代将軍徳川慶喜の従兄

1867年    第14代久松(松平)定昭に松山藩主を譲り、隠居

その後、定昭朝廷より蟄居させられ、第15代松山藩主に勝成再勤

太政官布告により、源氏姓松平氏と葵紋返上し、菅原姓久松氏を複姓

1869明治2年 版籍奉還により知事就任

1871明治4年 久松定昭に家督を譲る

1872明治5年 定昭死去後、久松定謨が5歳で家督を継ぐと元服するまで後見人となる

1898明治31年 茶人として知られ、忍叟の号で「和敬会」会員

 

参考文献 【ウイキペディア久松勝成】より写真記載

常盤会ー久松邸跡 正岡子規ゆかりの地
中央区教育委員会

常盤会ー久松邸跡 正岡子規ゆかりの地
中央区教育委員会 『どうする家康』家康生母於大と夫久松俊勝末裔との
明治6年久松小学校創立の不思議な縁!

日本橋浜町2丁目の都道50号東京市川線【新大橋通り】沿いに「常盤会ー久松邸跡」の表示があります。

常盤会は、1883明治16年に松山藩主久松家によって在京の旧藩士弟たちへの学資援助組織として久松屋敷内長屋に創設されました。

久松家は、明治維新後、三田から転居し、明治6年「第弐壱大区沽券図」浜町二丁目「四番/三千六白十七坪/弐千二円/久松定謨」と記されています。

常盤会の給付生には、育成助成金として、毎月の学費や教科書代・旅費などが支給され、明治維新後の混乱期において、東京で勉学を志す旧藩士子弟たちの心強い後ろ立てとなりました。

明治17年に選抜された初代給付生10人の中に、俳人正岡子規(1876-1902)がいました。子規は明治16年6月松山から単身上京し、一時期旧藩主久松邸の書生部屋に寄寓しました。上京翌年に初代常盤会給費生に選ばれたことを、半生の喜びの一つだと述べています。

常盤会は、給費生たちの便宜を図るため、久松邸売却・三田移転のため、明治20年本郷真砂町(現在の文京区本郷)坪内逍遥邸跡に常盤会寄宿を創設しました。正岡子規は明治21年9月から24年暮れまで書生として過ごしています。

特派員北游人さんのブログも参照ください。

https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/archive/2009/11/post-210.html

参考文献 正岡子規ゆかりの地「常盤会ー久松邸跡ー」

明治6年当時の久松小学校舎

明治6年当時の久松小学校舎 『どうする家康』家康生母於大と夫久松俊勝末裔との
明治6年久松小学校創立の不思議な縁!

明治に建てられた校舎は平屋でした。

参考文献【萬翆荘ホームページ】より当時の久松小学校の写真掲載

大正時代初期久松小学校舎

大正時代初期久松小学校舎 『どうする家康』家康生母於大と夫久松俊勝末裔との
明治6年久松小学校創立の不思議な縁!

明治から大正になり、二階建ての立派な校舎になりました。

 

参考文献 「国立国会図書館デジタルコレクション」 

関東大震災後の昭和7年久松小学校復興鉄筋校舎

関東大震災後の昭和7年久松小学校復興鉄筋校舎 『どうする家康』家康生母於大と夫久松俊勝末裔との
明治6年久松小学校創立の不思議な縁!

参考文献 「国立国会図書館デジタルコレクション」 

東京都中央区立久松小学校は、明治6年3月日本橋久松町に『第一大学区第一中学校第二番小学』として創立されました。元禄時代から久松町があるという古い地名でしたので、学校名はこの町名からが有力説でした。

中央区教育委員会教育委員長・久松校友会会長であった渡邊氏より『東京府志料』に「久松小学校明治六年七月創建ス華族久松定謨ノ献金ヲ資本トシテ新築セシカハ其姓ヲ取ツテ校名トセリ」久松家から寄付一金千園(現在の貨幣価値数千万円)との表記を見つけられ、やっとこの校名はどこからの論議が決着しました。

久松定謨の二男久松定武氏の子久松定成氏は愛媛大学農学部教授を退官なさっていましたが、久松小学校と祖父定謨との深いかかわりを知り、ご夫妻で快く130年記念式典に参加してくださいました。私もお会いすることが、できました。

参考文献 「久松小学校校友会だより」