湊っ子ちゃん

みなとっこ日記 湊のお地蔵さま例大祭

みなとっこ日記 

 

2023年6月3日(土)、湊のお地蔵さま「汐見地蔵尊」の例大祭が執り行われました。

朝からぽつぽつと雨が降っていましたが、お昼前にはしだいに雲間もでき、太陽の光がのぞくようになりました。つよい風の吹いている、そんな昼下がりでした。

世話人の方々や、ご近所のみなさんが数名集まり、お堂を囲みました。

椅子を持ち運び、どうぞ、とお互いゆずりあう場面も。

近くの家の方が、椅子を貸してくれたみたいです。

素敵ですね。

地域のコミュニティー。

ふだんは閉じられている戸が開き、お地蔵さまのお顔が見えました。そのまえに、お坊さんがお座りになってお経を唱えます。

湊っ子は、そっと、そのようすをみつめていました。

 

 みなとっこ日記 湊のお地蔵さま例大祭

湊三丁目の路地裏に、ひっそりとお堂をかまえる「汐見地蔵尊」。

今でこそ、護岸が整備され、隅田川テラスが水辺を彩っていますが、その昔は、隅田川を望むように、水辺に御鎮座していました。

江戸時代、文化4年の永代橋崩落事故では、おおくの犠牲者がでました。その後も地震や大火、そして関東大震災などがありました。地形によるものでしょうか、仏様はみな、川の流れにのって、この地に流れついたといいます。

湊のまちの人々は、名も知らぬ人々を厚く弔いました。そして、その魂を鎮めたのです。

その名残りは、6月の「汐見地蔵尊例大祭」と、7月のお盆に執り行われる「無縁仏供養」として今もなお、湊のまちのみなさんにより、引き継がれています。

 

 みなとっこ日記 湊のお地蔵さま例大祭

汐見地蔵尊のあたりには、かつて橋が架かり、正面から鉄砲洲通りに向かう路地は、まさに鉄砲洲川でした。

道幅が広いのは、その名残りでしょうか。ちょうど、湊二丁目と三丁目の境です。

今の鉄砲洲通りに出たところから、明石町方面へ、そして、明石堀へとつながっていました。

築地外国人居留地にあった、ヘンリー・フォールズの邸宅や、明治学院の前身、東京一致神学校の写真などには、この鉄砲洲川が写っています。

産業の発達にともない、湊まちであるこのあたりには、荷物を運んできた船が、たくさん停泊していました。

水夫さんは船のうえで家族と暮らしていましたから、湊のまちには食堂や船道具のお店、日用品を扱うお店などがおおくあったそうです。そして朝になれば、船はもときたまちへ帰っていったといいます。

そんな鉄砲洲川も、昭和4年、震災復興の一環として埋め立てられ、いまは鉄砲洲通りとなっているのです。

 

 みなとっこ日記 湊のお地蔵さま例大祭

明治時代、川底から現れたというお地蔵様は、御姿をとどめるため、いまは金網に支えられ、奥のほうへ安置されています。私たちが目にすることのできるお地蔵さまは、昭和5年に、湊のまちのみなさんによって建立されたもので、合掌姿で、丸い瞳をしています。

その頃のまちの名前は、船松町。

ふなまつちょう、それは、船を待つまち、または、船が待つまち、船待町を江戸っ子らしく洒落をきかせた呼び方だったのかもしれません。

水辺のまちである特徴をよく表した、粋な町名です。

そして、このお地蔵さまは、歯の神様でもあるのです。

お堂の塩を持ち帰り、歯を磨けば、たちまち歯痛が治るといわれ、厚く信仰されてきました。今もお堂前には、お塩がお供えされています。

 

 みなとっこ日記 湊のお地蔵さま例大祭

地域のみなさんに守られる、汐見地蔵尊。

あふれるばかりの鉢植えが、季節の花を咲かせます。

よく見ると、水色の大きなバケツが、鉢植えかわりになっています。

墨で書かれた屋号のようなもの。

もしかしたら、築地市場のおさがりかも…!

湊のまちならではの光景です。

 

たくさんのお花に囲まれて、お地蔵さまも、嬉しそう。

あじさいが、きれいな季節になりました。

 

 


「湊のお地蔵さま汐見地蔵尊」
(2018年6月13日公開 中央区観光協会特派員湊っ子ちゃん)も、あわせてご覧ください。

https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/archive/2018/06/post-5334.html

 

 

 みなとっこ日記 湊のお地蔵さま例大祭

中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第186号 令和5年6月29日