桜やよい

十返舎一九の『東海道膝栗毛』から菩提寺「東陽院」と
「灰、さようなら」のユーモア溢れる辞世句

江戸時代、十返舎一九は1802享和2年出版『東海道中膝栗毛』の作者で有名です。版元蔦屋重三郎プロジューサーの勧めで、日本初の文筆家(戯作者・絵師)として生計を立て、ヒット作を次々と出す流行作家だったと言えましょう。

現在の人気作家のように、出版社の一九担当者が机の横で原稿が上がるまで傍にいたようです。

そして、十返舎一九は実際に旅をしながら『東海道膝栗毛シリーズ』を執筆し、20年以上続編を書き続けました。

この成功には、江戸初期には字が読めなかった人も生活スタイルが大きく代わり、江戸中期には庶民が字を読むことができるようになったことが大きな要因となりました。

寺子屋が普及し、庶民も読み書き算盤を学ぶ機会が増え、庶民が娯楽を楽しめる『ズッコケ面白本』が飛ぶように売れました。

『東海道膝栗毛』は実体験型の旅行記でしたので、この本の爆発的な影響が江戸の人々の旅行ブームに火を付けたのです。

愉快・コミカルな話・辞世の句が有名だった一九ですので、さぞ愉快な人と思いきやかなりの変人だったようです。

晩年は創作には手を出さず、飲酒によって身体に不自由をきたし、孤独な最期だったと言われています。

十返舎一九の生涯

十返舎一九の生涯 十返舎一九の『東海道膝栗毛』から菩提寺「東陽院」と
「灰、さようなら」のユーモア溢れる辞世句

十返舎一九(じっぺんしゃいっく) 本名 重田貞一(しげたさだかつ)

幼名 一九 通称 与七・幾五郎 号 酔翁・十返舎

1765明和2年生-1831天保2年67歳没

江戸後期 戯作者、絵師『東海道膝栗毛』が有名

〇家系・出生 諸説有り

1.八王子千人同心(十人同心)の子  2.駿河国府中(静岡市葵区)代官丹後の子

3.有力説 駿河町奉行重田氏に養われ、葵区両替町一丁目に生誕の碑建立

〇江戸に出て、武家奉公

〇1783天明3年19歳大坂奉行・小田切直年に奉仕(実証なし)

〇1789寛政元年25歳近松与七の名前で、浄瑠璃『木下蔭挟間合戦』(このしたかげはざまがっせん)作

〇材木商に入婿として入るが、離縁

〇1794寛政6年30歳で江戸に戻る。版元・蔦屋重三郎の通油町(中央区日本橋大伝馬町)に寄宿

〇1795寛政7年31歳で蔦屋に勧められ、黄表紙『心学時計草』他3種の黄表紙を出版。翌年から毎年10種類以上の黄表紙を刊行。

〇1796寛政8年32歳で長谷川町(中央区日本橋堀留町2丁目)町人に入婿し、放蕩が原因で1801享和元年38歳で離縁

〇十返舎一九は文才に加え絵心があり、文章だけでなく挿絵も自分で描き、用紙加工・版下も書くという、版元に便利な作者でした。

〇狂言・謡曲・浄瑠璃・歌舞伎・落語・川柳などに詳しく、狂歌は三陀羅奉仕に学び、神田派に所属。

〇1802享和2年38歳『東海道膝栗毛』が大ヒットして、一躍流行作家

〇1804文化元年40歳お民を娶って通油町鶴屋裏の地本問屋会所に住み一女をもうけ、駿河屋藤兵衛と名乗る。亀戸・深川佐賀町に火災を避けた時期もあったが、晩年は通油町・長谷川町住まい

〇1810文化7年46歳で目を病み、しばしば再発

〇1822文政5年までの21年間、次々と『膝栗毛』の続編を書き続けました。58歳で中風を患い、その後は「名を貸しただけなのでは」と疑われます。一九らしくない作風の作品混ざっていました。

〇1831天保2年8月7日67歳没。辞世の句に『此世をは とりやお暇に 線香の煙とともに 灰さようならなら』は有名です。

〇頻繁に取材旅行に出かけ、山東京伝・式亭三馬・曲亭馬琴・鈴木牧之らと交流しました。

〇『方言修行金草鞋(むだしゅぎょうかねのわらじ)』も広く読まれました。

ウィキぺディア 十返舎一九参照

作品と作風『東海道膝栗毛』

作品と作風『東海道膝栗毛』 十返舎一九の『東海道膝栗毛』から菩提寺「東陽院」と
「灰、さようなら」のユーモア溢れる辞世句

滑稽本の代表作は『東海道膝栗毛』です。滑稽本面白おかしいしかもズッコケ話が江戸っ子たちに大ウケ

江戸後期に確立した形態と言われています。当時は『中本(ちゅうぼん)』と呼ばれていました。

堅苦しくなく、会話主体のわかりやすい文体で書かれたもので、話の内容は、他愛もない言葉のひっかけやダジャレ、ちょっと下ネタっぽい話題も絡めて庶民の笑いを誘うという、現在の漫才やコント源流になるといえるでしょう。

江戸時代の庶民は生活の中に笑いを求めていたのでしょう。

文学の知識が無くてもさらりと読めて、だれでも書けるという親しみやすさが人気でした。

まさに、十返舎一九の真骨頂ともいえる『東海道膝栗毛』でした。

『栗毛』は栗毛の馬のこと。『膝栗毛』とは自分の膝を馬の代わりに使う徒歩旅行の意味

一口で言えば、江戸時代の東海道旅行記です。

お江戸・神田八丁堀長屋の住人栃面屋弥次郎兵衛(とちめんややじろべい)49歳は肥えていて、のらくら者でただのおやじと軽薄な性格設定がなされていましたが、一方で楽器を演奏し、古今の書籍に通暁、狂歌や漢詩、法律文書自由に作成、極めて教養の高い人物に描かれています。

駿河国府中(静岡市)出身、実家は裕福な商家であったが、放蕩が過ぎて作った借金が元で江戸に夜逃げし、「借金は富士の山ほどある故に、そこで夜逃げ駿河者かな」と身の上を詠んでいます。蜜陀絵を描いて、生計を立てています。

居候喜多八29歳は弥次郎の幼馴染の陰間で一緒に江戸に駆け落ちしてきます。商家で使用人として奉公していましたが、使い込みした上に、女主人に言い寄ろうとして嫌われ、解雇されて行き場を失い、弥二さんとともに旅立ちます。

それぞれの人生が思うようにならないので、厄落としに風呂敷一つに荷物をまとめて東海道をお伊勢参りへ。さらに、京都・大坂へと続編、四国讃岐の金毘羅大権現・松尾寺を参拝し、中国に行き、宮島見物、そこから引き返し、木曽街道を東に善行寺参詣をし、草津温泉に行き、江戸に帰着しました。

二人は、道中で狂歌・洒落・冗談を交わしあい、いたずらを働いては、失敗を繰り返し、先々で騒ぎを起こす話は庶民の娯楽にぴったりの題材でした。

『東海道膝栗毛』ウィキペディア参照

版元『東海道膝栗毛』『続膝栗毛』

版元『東海道膝栗毛』『続膝栗毛』 十返舎一九の『東海道膝栗毛』から菩提寺「東陽院」と
「灰、さようなら」のユーモア溢れる辞世句

『東海道膝栗毛』

1802浮世道中(品川-箱根)1803道中膝栗毛後編(箱根-蒲原-岡部)18043巻(岡部-日坂-新居)4巻(新居-赤坂-桑名)1805 通油町(日本橋大伝馬町) 村田屋治郎兵衛

18065巻(桑名-追分-山田)18076巻(伏見・京都)18087巻(京都めぐり)18098巻(大阪見物) 本石町二丁目 西村源六・通油町 霧屋喜右衛門・心斎橋唐物町 河内屋太助

1814後発『発端』馬喰町ニ丁目角 西村屋興八

『続膝栗毛』

1810『金比羅参詣 続膝栗毛上下』1811『宮島参詣 続膝栗毛上下』油通町 村田屋治郎兵衛

1812『木曾街道 続膝栗毛三編上下』1813『木蘇 続膝栗四編上下』馬喰町ニ丁目角 西村屋興八

1814『木曾街道 続膝栗毛五編上下』心斎橋唐物町 河内屋太八・森屋治兵衛・西村屋興八

1815『木曾街道 続膝栗毛六編上下』1816『岐曾続膝栗毛七編上下』『従善行寺道 続膝栗毛八編上下』人形町通乗物町 鶴屋金助

1819『続膝栗毛九編上下』1820『続膝栗毛十編上下』1821『続膝栗毛十一編上下』1822『続膝栗毛十二編上下』伊藤興兵衛

十返舎一九菩提寺 真圓山『東陽院』勝どき4-12-9

十返舎一九菩提寺 真圓山『東陽院』勝どき4-12-9 十返舎一九の『東海道膝栗毛』から菩提寺「東陽院」と
「灰、さようなら」のユーモア溢れる辞世句

十返舎一九墓所《徳川夢声筆》・辞世の句『此の世をは とりやお暇に 線香の 煙とともに 灰さようなら』

十返舎一九墓所《徳川夢声筆》・辞世の句『此の世をは とりやお暇に 線香の 煙とともに 灰さようなら』
 十返舎一九の『東海道膝栗毛』から菩提寺「東陽院」と
「灰、さようなら」のユーモア溢れる辞世句

1648慶安元年開山浄源院日隆上人(日蓮宗)によって丸の内鍛冶橋付近の善立寺中塔として建立され、 3代将軍家光の時に浅草永住町に移転しました。関東大震災で被災して1930昭和5年現在の勝どきに移転しました。

辞世の句は十返舎一九らしいですね。現在に十分浮けるユーモアセンスに感動してしまいました。

1958昭和33年2月東映映画会社が『弥次喜多道中記』(千葉泰樹監督・加藤大介弥次役・小林桂樹喜多役・徳川夢声十返舎一九役)の制作にあたって、寄進されたそうです。

台座中央下には一九が用いた印形の熊手と(貞)の組み合わせが刻印されています。

墓塔の奥には一九の戒名『心月院一九日光信士』も刻まれています。

教育委員会区民文化財に登録されています。

 十返舎一九の『東海道膝栗毛』から菩提寺「東陽院」と
「灰、さようなら」のユーモア溢れる辞世句

〇山東京伝や曲亭馬琴に比べると知的な教養にかけ、創意工夫や緻密さに欠ける半面、読者の嗜好や敏感に察知し、先行作品に巧みに脚色編集する能力に長けていました。総作品数580種を超え、馬琴と並ぶ近世文学史上最多作者とされます。まさに娯楽の奇才でした。