慈恵医科大学の学祖高木兼寛が渋沢栄一の支援で
病者の側にたつ全人的医療を目指す!
1881明治14年1月7日発祥地(銀座4-4-1に記念碑)に高木兼寛が東京慈恵会医科大学の前身『成医会講習所』を開設しました。
中央区発祥の医大は順天堂大学医学部・東京女子医大・日本医科大学と多くの医学大学があります。
その中でも日本で最も古い私立医科大学の発足でもありました。
松山棟庵と18名の医師と共に、日本の貧弱な医療環境の改善を目指す学術団体でした。
患者中心の医師を育成する成医会講習所として、常に患者と接することができる病院が不可欠だと考え、貧しい人々が診療を受けることができる施療病院開設をも目指していました。
1882明治15年日本で最初の民間慈善病院『有志共立東京病院』開院
設立趣意『貧乏であるために治療の時期を失したり、手を施すことなく、いたずらに苦しみにさらされている者を救うこと』
イギリス留学中深く影響を受けた人道主義や博愛主義に基づき、病院の資金は有志拠金によるものでした。
慈善病院の他に医学教育の場としても重要な役割を果たしていました。
成医会講習所や海軍軍医学校の実習病院の役割も担っていました。これは、イギリスで経験した慈善病院と医学校の関係を東京に実現しようとしたものです。
高木兼寛の目指した日本医学会の改革を目指す病者の側に立つ全人的医療
生誕 1849嘉永2年10月30日
没 1920大正9年4月13日(70歳)
1875明治8年ー1880明治13年の5年間イギリス『セント・トーマス病院医学校』に学び、この学校のように権威のある医学校を日本に作りたいと思って帰国しました。
当時の明治政府のドイツ医学採用の方針による急激な患者を研究材料とみる好ましくない医療業界への変貌に気づき、より健全な患者を病に悩む人間とみるイギリス医学の萌芽を日本の土壌に育成する必要があると痛感しました。
1884明治17年4月『有志共立東京病院』有栖川威仁親王を病院総長として正式に開院
1884明治17年6月・1886明治18年11月皇室・貴族などによる婦人慈善会が2度にわたり、鹿鳴館でバザーを行った収益金によって1885明治18年10月『有志共立東京病院看護婦教育所』開設 アメリカから看護師M.Eリード女史を指導者として招く
1887明治20年4月1日『東京慈恵医院』昭憲皇太后陛下の御意向によって病院名を改称
幹事長 有栖川親王妃薫子殿下就任
1887明治20年5月9日昭憲皇太后殿下ご臨席を仰いで『東京慈恵医院』の開院式挙行
1890明治23年8月『成医会講習所』⇒『成医学校』生徒募集
1891明治24年9月『東京慈恵医院医学校』
『貧しい病者を救う為に病者の側に立つ全人的医療』を目指しました。
建学の精神『病気を診ずして病人を診よ』は今もしっかり引き継がれています。
遠洋航海実験から脚気を予防する海軍カレーを考案
『医学は実学であり、何よりも病気の予防・治療のためのもの』という信念を遺憾なく発揮した高木兼寛
3分の1の人たちがこの時代脚気で亡くなっていました。
脚気に対するビタミン不足の学説はなく、伝染病説が支配的であった当時、2隻の軍艦を使った壮大な遠洋航海実験から、栄養欠陥説(タンパク質・炭水化物割合に原因がある)を掲げ、従来の白米食にかわり洋食を摂らせて、同じコース、時間をかけて航海させました。
結果、白米食の水兵からは半数近い170人が脚気にかかり、25名の死亡者が出たのに対し、洋食の水兵からは脚気患者20名・死亡者0名でした。この結果、日本での脚気患者は激減しました。
高木兼寛はまだこの段階では、ビタミンB1の欠乏という原因にはたどり着いていませんでしたが、有効な予防策はバランスの良い食事としてイギリス海軍で食べられていた海軍カレーを日本の海軍でもとり入れたのです。初めは、パンを付けていましたが不評だったために、ご飯(麦飯5割)を付けるようになり、日本の家庭にも広がりました。簡単に作れて美味しいので、現在でも日本人のカレー好きのルーツが海軍カレーにあることを知りました。『横須賀海軍カレー』も有名ですね。
この功績により男爵の爵位をいただくと、麦飯を推奨して実質的にビタミンB1欠乏も補われ、脚気予防に効果が見られたことから、高木兼寛は『麦飯男爵』と人々から呼ばれていたそうです。
その信念は現在もしっかり引き継がれ、慈恵医科大学付属病院食には毎日昼食は麥飯が出されています。
南極大陸に『高木岬』とビタミン研究開拓者として、イギリス南極地名委員会が命名
当初は高木兼寛の栄養素欠乏で脚気が発病するという学説は日本の医学会には受け入られませんでしたが、その後ビタミンB1が発見されるとビタミン研究者として高い評価を受け、世界中で讃えられました。
その功績から1959昭和34年に南極大陸に『高木岬』という地名が付けられました。
高木兼寛は渋沢栄一の主治医・渋沢栄一は慈恵医大の恩人
不思議なことに渋沢栄一という人は日本が戦争をする度に病気にかかるという不思議なジンクスを生きていました。(中略)91歳という長寿を保った人ですが、病気にかかると、ちょっとした風邪でも大げさに考えて、ひどく弱気になる傾向があったようです。
主治医だった高木兼寛は、その度に悲観論を退け力強く励ましていました。渋沢栄一自身が『先生は断固として是を斥け、病気の必ず快復すべきを確言せられたり。此の時も果たして快癒して今更に先生の明晰を感謝したりき』という一文を残しています。
高木兼寛への優れた医療への尊敬と、恩返しという意図もあったのか、
1907年に社会法人東京慈恵会が発足すると、副会長と財務担当者を引き受け、経営全般に亘って支援します。当時の有力者が寄付しましたが、渋沢家では妻や娘、孫の嫁まで20名余りの女性が拠金されています。
1931年渋沢栄一が亡くなると、孫の渋沢敬三が東京慈恵会の役員を引き継ぎ、支援は継続されました。
渋沢栄一は日本資本主義の育ての親ですが、多くの非営利の社会事業:社会福祉事業や医療事業、教育事業にも関わりました。
貧しい人々を無料で診療する施療病院経営や医療者教育に取り組む高木兼寛を支援し続けました。
東京慈恵医科大学付属病院 港区西新橋3-18-19 ☎03-3433-1111
東京慈恵医科大学付属病院 中央区晴海1-8-8 ☎0120-103-701
東京慈恵医科大学病院葛飾医療センター 足立区青戸6-41-2 ☎03-3603-2111
慈恵医科大学付属病院柏病院 柏市柏下163‐1 ☎04-7164-1111
藤井英紀整形外科准教授 診療副部長
2024.4.1に東京慈恵会医科大学付属第三病院
整形外科 診療部長に異動されました。
股関節に痛みを感じて、慈恵医科大学付属病院の藤井英紀先生の診察を受診することができました。
私の場合、右足股関節の軟骨が変形してしまって診断としては、人工股関節手術を受けた方が良いということでした。痛みを感じてほっておかず、早めに受診することが自分のこれからのライフスタイルを考える良いきっかけになりました。人工股関節は20年は保障されていることと、人生の最後まで自分の足で歩きたいという思いを強く持っていました。
手術を受けるにあたって、ネットで人工股関節手術や藤井英紀先生について調べ、慈恵医科大学では人工股関節手術数国内最大級と合わせ研究にも力を入れていることを知り、安心して手術をすることにしました。
藤井英紀先生は【ブラックジャックを探せ】での記事では股関節のエキスパートとして紹介されていました。股関節手術は手術前のプランニングが重要であり、これをどこまで正確にできるかが手術の仕上がりを左右することにつながっています。『機械では不可能、股関節の低侵襲手術の達人』としての「実際に関節鏡(内視鏡)を入れてみると、その場その場で微妙な判断を迫られることが少なくありません。その微調整は人間だからできることで、機械では無理。そこが最大の魅力でもあるんです」「私が若い頃は技術は見て盗めといわれたものですが、今は違う。どんどん経験して、技術を身に付けてほしいし、それができる環境が整っています」とおっしゃっています。
藤井英紀先生はまさに、患者満足度の向上と優秀な医師育成にも力を入れさらに、学祖高木兼寛の建学の精神『病者の側にたつ全人的医療』を受け継がれていらっしゃいます。
(慈恵医科大学付属病院 藤井英紀准教授には記事・写真記載の承諾をいただいております)
参考文献:『東京慈恵医科大学130年史』・東京都慈恵医科大学ホームページ
ウィキペディア『東京慈恵会医科大学病院』『高木兼寛』『日本の脚気史』
『ZaKZaKby夕刊フジ』ブラックジャックを探せ 藤井英紀さん
『人工関節ドットコム』藤井英紀先生