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日本橋の待合茶屋「壽(ことぶき)」

NHKの朝ドラ「らんまん」の主人公(植物学者)『牧野富太郎』の奥さん「寿恵」さんが渋谷区円山町に”待合茶屋  『いまむら』”を開いたことで、『待合茶屋』が注目されています。ちょうどよい機会ですので、以前ブログで紹介した「待合茶屋:亀の尾」(2017年11月7日)の続編を書こうと思います。

前回のブログの中で、明治時代に落語家への待合茶屋に関するインタビュー記事を紹介しましたが、「その頃は、(待合茶屋の有名処は)駿河町(正しくは本町)の亀の尾、日本橋の寿、芝では千歳の三軒が一番の名うてであったと述べています。・・・・・・」

東京流行細見記に日本橋区における主な待合茶屋として、「壽(通3丁目)、亀の尾(本町三丁目)、池の尾(両替町)、藤岡(岩附町)、小澤(通4丁目)、柳や(呉服橋)、布袋屋(元大工町)、さがみや(檜物町)の8軒を数えています。これらが繁盛したのは、維新後株式・米穀取引所の設立(日本橋蛎殻町)と大問屋の繁盛によるところが多く、また東京の商業金融の中枢に近接している地理的事情のためでもありました。明治36年末には110軒、大正元年末には266軒、昭和元年末には364軒へ増加しています。

私が所属している東京シティガイドグループ(TCGC)の「古典芸能グループ」が、渋谷円山町の待合茶屋?を借り切って、御座敷遊びの真似事を11月4日に開催します。私も参加して都々逸などの三味線芸・落語を聞いて、茶屋での遊びを少し経験してきます。報告するものがあれば報告させていただきます。

待合茶屋「壽(ことぶき)」

待合茶屋「壽(ことぶき)」 日本橋の待合茶屋「壽(ことぶき)」

「丸善百年史」には明治10年代の丸善付近の地図が掲載されています。丸善の左方向が日本橋に至り、右方向は銀座に至ります。通り三丁目の下(西側)の一角は現在「丸善ビル」となっています。その頃丸善の向かい側には、近新毛皮店(江屋伊藤兵衛 通3-3)がありその右隣=南側(通三丁目4)には待合茶屋「壽」がありました。

東京新繁昌記(抄)によれば、「商人の集会多し、席料大広間で4円~5円/日と書かれています。持ち主は飯塚熊蔵となっており、明治20年の全国所得納税者姓名録にもその名は掲載されているので繁盛していたと推測されます。(当時の貨幣は現在価値で約4,000倍と言われていますので、大広間の席料は約20,000円。これに飲食代が加わるのでかなりの金額に昇るようです)

銅板画「待合茶屋 壽」

銅板画「待合茶屋 壽」 日本橋の待合茶屋「壽(ことぶき)」

通町3丁目3の「近新毛皮店」の銅版画を見つけましたが、「壽」の銅版画を見つけることは出来ませんでした。添付の銅版画の近新毛皮店の隣が「壽」ですので、赤丸で囲った隣宅が相当すると思います。銅版画の主たる対象になっていないので詳細は判りませんが、亀の尾の2階の大広間が40畳で席料が1円50銭だったのに対し壽は4円~5円/日ですので、壽の方が大きかったと推測されます。

参考文献:

1) 東京流行細見記

2) 丸善百年史(上) 丸善発行 昭和55年9.18

3) 東京新繁昌記(抄) 金子佐平編 京橋図書館蔵 明治30.12.21

4) 東京百事便 三三文房 京橋図書館蔵

5) 日本橋区史(下)II 日本橋区役所発行 昭和12.10.25

6) 東京商人録 1987.8.25発行 湖北社