『銀座』はどこまで?
銀座を一周してみましょう! ⑭
~ 築地川祝橋公園・明治会堂跡・専修大学発祥の地 ~
リモートで、愛する中央区をナビゲートします、rosemary sea です。
「『銀座』はどこまで? 銀座を一周してみましょう!」シリーズ、第14回です。
今回は「築地川祝橋公園」、「明治会堂跡」、「専修大学発祥の地」をご紹介します。
築地川祝橋公園
何やら前回より、公園色が強いものに変貌してしまいました。
旧築地川流域には、高速道路の上部を利用して、公園が造られております。
築地川祝橋公園は、祝橋の脇にあります区立の公園です。
築地1-11-13先になります。
前回の最後にご紹介しました「築地川亀井橋公園」と、このあとご紹介します「築地川銀座公園」に比べ、やや地味な公園ですが、その分落ち着ける雰囲気、というものがあるような気がします。
ですから画像に示されていますように、こちらでランチをいただいたり、休憩される近隣にお勤めの方々、多くいらっしゃいます。
ですが、こちらは薔薇の花が咲く頃は、その頃だけは趣きを変えて華やかになるようです。
その薔薇の開花の様子は、2016年5月16日のジミニー☆クリケットさんの記事、ロズマリがまだ特派員なり立ての頃の記事をご覧いただけたら幸いです。
薔薇は冬にも咲くようです。同じくジミニー☆クリケットさんの記事、2017年12月30日もご覧ください。
この公園の祝橋側にありますレリーフです。
(レリーフには以下のような文字が刻まれています。)
歌舞伎座手前より祝橋方面を望む(明治期)
東京名所図会「歌舞伎座の図」より
祝橋
形式 2径間連続鉄筋コンクリートT桁橋
橋長 36.25m
有効幅員 15.25m8(車道8.80m 歩道3.10・3.35m)
建設年次 昭和37年10月 首都高速道路公団施行
景観整備年次 平成4年3月 東京都中央区
明治会堂跡
2021年12月28日の記事「ちょっと気になる中央区の神社⑩ ~宝珠稲荷神社~」にて、明治会堂跡はご紹介済ですが、後に続く「専修大学発祥の地」との関連のため、改めて記します。
明治会堂は、明治14年(1881年)、福沢諭吉の発案により建設された演説会場です。
瓦葺き木造2階建て、建坪約620㎡の疑洋風建築で、福沢の親戚である藤本寿吉(ふじもと ひさきち)により設計されました。
当時の演説会場としては、福沢の建てた三田演説館など若干の施設が存在しましたが、規模などの面から、多くの演説は本来演説会場ではない貸席、劇場、料亭などで行われていました。
これらに代わる施設の整った演説会場として明治会堂は建設されました。
(説明板内の)左の錦絵「明治会堂之図」の説明文に、「会場の広間は3千人を容(い)れ、食堂には2百人の席を設(し)くべし、講義室あり事務室あり結構至らざる所なく実に東京第一の会堂なり」とあり、当時としては会食もできる東京髄一の演説会場で、政談演説をはじめ、各種演説、行事が頻繁に行われました。
明治15年末に福沢の所有から農商務省の手に渡り、明治17年には厚生館と改称されて使用されましたが、明治23年(1890年)に民間に払い下げられた後、大正12年(1923年)の関東大震災で消失しました。
専修大学発祥の地
(碑文は以下のようになっております。)
専修大学発祥の地
専修大学は明治13年9月16日ここ東京市京橋区木挽町(こびきちょう)2丁目14番地に経済及び法律の専修学校として発足したことに始まる
創立者は相馬永胤 田尻稲次郎 目賀田種太郎 駒井重格の諸先達で建学の精神は社会に対する報恩奉仕であり質実剛健 誠実力行は学風である
(また、専修大学ホームページには、以下のように沿革が示されています。)
明治13年(1880年)8月
日本語による経済・法律専攻の専修学校(夜間2年制)設立のため「私立学校開業上申」を東京府知事松田道之に提出
同年9月
京橋区南鍋町1丁目4番地の仮校舎で16日開校式を挙行、入学生は1年生・2年生合わせて51人
同年10月
京橋区木挽町2丁目14番地の本校舎(明治会堂)の改装を終わり、11日仮校舎から移る(現在の銀座3丁目)
明治14年(1881年)3月
創立者グループによる法律雑誌『明法志林』を発行
同年7月
第1回卒業式を明治会堂で挙行、卒業生経済科2人、法律科9人(開講時2年編入の生徒)
明治15年(1882年)11月
神田区中猿楽町4番地にキャンパス移転(開講時2年編入の生徒)
「築地川祝橋公園」は、上の地図上の中央やや左上、赤丸で囲みました。
「専修大学発祥の地」は、その赤丸の下、ターコイズ色の四角の位置です。
「明治会堂跡」は、更にその下、茶色の星形のところです。
銀座全図では右上の黒いラインを進みました。