湊の劇作家 郡虎彦
こんにちは、湊っ子ちゃんです。
明治時代、中央区を舞台に生まれた近代文学の礎は、メイゾン鴻ノ巣やカフェ・プランタンなどの西洋風レストランを拠点に成熟してゆきました。そのなかに、現在の湊一丁目で生まれた劇作家がいました。
のちに渡欧し、「鉄輪」「義朝記」などの作品がロンドンで上演されるなど、主にイギリスで活躍した人物です。最後は、日本に戻ることもないまま、病気のため若くして、遠い異国の地で天に旅立ちました。今日はそんな、悲劇の天才劇作家、郡虎彦(こおりとらひこ)についてご紹介します。
♪ 郡虎彦のおいたち
明治20年(1890)6月、郡虎彦は京橋区南八丁堀三丁目12番、現在の湊一丁目に生まれました。鈴木学校の校長、鈴木耕水の6男でした。虎彦は生まれて間もなく、叔母夫妻のもとへ養子に出されます。実母、石渡錫(いしわたりすず)の妹登美と、その夫郡寛四郎のところです。このような経緯から、虎彦は郡姓を名乗ることになったのです。
♪ 御船手組の家系
虎彦の実母、錫の生家である石渡家は、代々幕府の御船手組に勤務していた家柄です。養父寛四郎その人も、石渡家に育てられた人でした。
寛四郎は、日本郵船の最古参の船長でしたので、虎彦は幼少時代を、神戸や広島で過ごしました。明治29年(1896)より、日本橋区阪本尋常小学校に学び、明治35年(1902)9月、学習院中等科一年に入学します。学習院へは、越前堀(現在の中央区新川)の叔父、敏一の家より通うことになりました。
敏一の越前堀のお屋敷は、日本にはじめて郵便制度を導入した、前島密(まえじまひそか)の旧邸宅でした。庭には大きな椎の木が立っていて、江戸湊に入る船の目印だったといいます。
学習院の入学と同時に、虎彦は自分が養子であることを知りました。虎彦は、生まれ育った家柄を大変誇りに思っていましたので、そのことは大きな衝撃でした。その後、虎彦の心に、一種の暗い影を落とすことになるのです。
♪ 白樺の創刊と虎彦のデビュー
学習院に入学してからの虎彦は、インフルエンザがもとで体を患いながらも、学習院関係者の機関誌である「輔仁会(ほじんかい)雑誌」の編集部に顔を出すようになりました。そこには、のちに「白樺」同人となる、志賀直哉、武者小路実篤、正親町公和(おおぎまちきんかず)、木下利玄、山内英夫(里見弴)などがいました。
明治43年(1910)4月、洛陽堂から同人雑誌「白樺」が誕生しました。そのとき虎彦は、高等科2年でした。創刊号に発表された「エレクトラ梗概」が、虎彦のデビュー作です。その年、雑誌「太陽」が募集した懸賞小説において、虎彦は「松山一家」を投稿し当選しました。選者は内田魯庵でした。
明治41年(1908)12月、「文学界」の木下杢太郎らによって、「パンの会」が発足します。そこには、「白樺」「スバル」「三田文学」「新思潮」の同人たちが加わり交流を深め、耽美主義的文芸運動という波が起りました。会合の場所は、柳橋たもとの西洋料理屋第一やまと館、大伝馬町の三州屋、鎧橋たもとのメイゾン鴻ノ巣などでした。次第に虎彦も、パンの会に加わるようになりました。
♪ はじめての舞台は大失敗!
明治44年(1911)、雑誌「スバル」6月号に発表した、戯曲「清姫 若しくは道成寺」が、小山内薫と市川左団次が主宰する「自由劇場」第6回試演会として、帝国劇場で上演されました。しかし、観た人の反応は散々なものでした。自信家だった虎彦にとって、劇作家デビューの失敗はそうとうのショックでした。それに加え、兼ねてより虎彦の文芸活動に反対だった義父との関係も、より悪化します。虎彦は、日本を離れる決意をしました。
♪ へスターとの出会い
大正2年(1913)8月、虎彦は、神戸から宮崎丸に乗って、ヨーロッパへ旅立ちました。語学の才能に恵まれた虎彦は、船に乗っている日々のあいだに、フランス語を覚え、9月末、パリに着いたときには、不自由なく話せるようになっていました。パリでは、島崎藤村が下宿先を手配してくれていました。
その後、ミュンヘンを経由しロンドンに渡ります。美術史家の沢木梢、物理学者の木下正雄、学習院同期生の大澤章、舞踏家の伊藤道郎らと交流しました。
チェルシーのロイヤル・ホスピタルロードにある、画家や詩人たちが共同生活をしている家に案内された虎彦。出迎えてくれた藤田嗣治の後ろに立っていたのが、その後、虎彦のよき理解者であり恩人となる、へスター・マーガレット・セインスベリーでした。
ヘスターとは、どんな女性だったのでしょうか。虎彦の親友である大澤章は、「郡虎彦君の追憶」(全集別冊)のなかで、「背の高い、顔の丸い、眼鏡をかけた眼の少し鋭い、髪をおかっぱにした若い女」と表現しています。
ヘスターはつねに虎彦の味方となって、病身の虎彦を忠実に看護し、最期を看取った人でした。きっと虎彦にとって、心の支えになってくれた人なのでしょう。
♪ ロンドン公演大成功!
大正6年(1917)の暮れ、以前「白樺」に発表した「鉄輪(かなわ)」が、ロンドンのピカデリー・サーカスにあるクライテリオン劇場で上演されました。もちろん、すべて英語です。そのとき、虎彦はマントを纏い東洋の詩人に扮して舞台にあがり、自作の前口上を語りました。「鉄輪」は一晩だけの公演でしたが、好評を博し、モーニングポスト紙などにも取り上げられました。
大正9年(1920)9月、虎彦は帰国します。ところが、日本の国民や文学関係者における歓迎が期待とは裏腹に、手薄なものでした。また、義父をはじめ、家族が虎彦の再渡欧を望まず、関係が悪くなったことなどから、虎彦は再び、逃げるようにして日本を去りました。
ロンドンに戻った虎彦は、へスターとともにスイスへ渡り、生涯の大作となる戯曲「義朝記」(the toils of yoshitomo)を書き始めます。三幕六場とエピローグから成る「義朝記」は、ロンドンのリトル・シアターで上演されました。多くの新聞や雑誌が、この公演を取り上げました。
それはまさに、J・ジョイス、T・S・エリオット、ヴァレリー、プルーストなど、ヨーロッパの文芸界が大きな転換期を迎えた時代でした。そのなかで、独自の悲劇観を構築した日本人劇作家として、郡虎彦はその歴史に名を刻んだのです。
♪ 虎彦のさいご
「義朝記」上演後、それまでの苦労がたたり、虎彦はさらに病状を悪化させてゆきました。ロンドンを離れ、スイス、南フランス、イタリアと、療養施設を転々としました。その間にも、虎彦は評論「芸術覚書」を完成させています。そして最後に、スイスに戻りました。
スイスのモンタナにある療養施設「シャレ―・シレーヌ」には、へスターの父、ハリントン・セインスベリー博士が勤務していました。虎彦はそこで治療を受け、一時回復し、次に書きたいと思っている戯曲の構想を練りました。しかし残念ながら、再び病状は悪化、大正13年(1924)10月6日、ヘスターとハリントン博士に見守られ、天に旅立ったのでした。虎彦、34歳の若さでした。
♪ みんな、郡が好きだった
柳宗悦、長田秀雄、杉山正樹、長与善朗など、数々の文人仲間が、虎彦との思い出を振り返っています。みな、口をそろえて言うことが、「郡は早熟であった」「郡は自信家であった」「郡はロマンティストであった」「郡は語学の才能があった」「郡はお洒落だった」ことなどです。また、浪費家であったことも事実で、決していい評価だけではありませんが、結局は、みな彼のことを憎めなかったそうです。
こんなエピソードも残っています。
虎彦は、ハイカラで着るものにも凝っていたようですが、残念なことに、汚れた服をそのまま着ているような人でした。気取っていながらも、相手に隙を見せるところに、本当は淋しがりやで人恋しい、そんな彼の性格が出ていたのかもしれません。
虎彦没後34年目の昭和33年(1958)に、戯曲「道成寺」が俳優座劇場で上演されました。ついで、翌年には「鉄輪」が試演という形で上演されています。平成16年(2004)には、「義朝記」が大阪芸術創造館で上演されました。
また、郡虎彦は、のちの三島由紀夫に多大な影響を及ぼした人物とも見られています。三島由紀夫の「仮面の告白」「近代能楽集」などに、その傾向があるとされています。
参考文献:「中央区区内散歩 史跡と歴史を訪ねて 第七集」、ほか
郡虎彦の生誕の地にほど近い、旧稲荷橋より隅田川方面を望む(東京都中央区湊一丁目7付近)
中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第53号 令和元年6月9日