連載小説「kimagure湊だより」第10話アメリカ公使館跡記念碑のなぞ 推理編Ⅱ
第10話アメリカ公使館跡記念碑のなぞ
推理編Ⅱ
・・・前回までのあらすじ・・・
明治時代に外国人居留地だった、いまの中央区明石町に残された、アメリカ公使館跡の記念碑。五稜の星、盾形の星条旗、白頭鷲、の三種類の図柄があり、合計5基が中央区民有形文化財になっている。
発見されたときは、荒れ果てた庭の、小高い丘のうえに並んでいた。どんな目的でつくられたのか、誰がつくったのか、いつつくられたのか…。それは今も、謎に包まれたままだ。
中央区ファンの私と黄色い小鳥ちゃんは、生意気にも、この謎を解明しようとのりだした。
・・・・・・・・・・・・・・
推理⑤橋の欄干
「小鳥ちゃん、もしかして」
私はにやっと笑い、いいこと思いついた、と言った。
「いったい、あなた!」
黄色い小鳥ちゃんは、こわごわ私を見上げる。
こんなとき、なんと私は恐れ多いことか、怖いもの知らずで、身のほど知らずで、好き勝手に想像をふくらませて言いたいほうだい仮説を立てる、そういう傾向があるからだ。
「橋が架かっていたんじゃない?」
と、私は言った。
「ほらね!」
と、黄色い小鳥ちゃんは顔をおおう。
「とんでもないこと、考えたわね」
「ほら、満潮時には、敷地まで海水がしたってきて、それがむしろ風情をかもしだしていたというけど、たとえば玄関のまえに、橋を架けていたとか。敷地内から歩道に出るまで、くらいの、簡易的なもの。そう、水びたしになった生垣のくぼみを、またぐぐらいの役割の」
私は、さっき読んだ本のことを思いだし、黄色い小鳥ちゃんに、もういちどその箇所を読んでくれるようお願いした。
黄色い小鳥ちゃんは、
「いいわよ」
と言い、得意気に朗読した。
‐星条旗が汐風にはためく公使館の庭の東側は、馬車が並んで走れる土堤上の道、下は海岸で、土地者は鉄砲洲海岸と呼んでいた。水際は近く打ち寄せる波が運んだ海藻や木片が、雑草にひっかかっていた。満潮時には水際が石垣や土堤に近づいて、ひたしながら路面近くまであがってくる。-
『築地明石町今昔』北川千秋より
「おもしろいところに目をつけたわね。海水が土堤を越えて、こちら側まで浸すことだってじゅうぶんに考えられるし、橋とは呼べないまでも、ちょっとしたものを渡らせて足場にしていたかもしれないわね。それで、あの石碑はどうなっていたの?」
「橋の欄干だった!」
黄色い小鳥ちゃんは、目をぱちくりした。
「なるほど」
「ちょうどくりぬかれているし、欄干っぽいでしょ?白頭鷲はくりぬかれていなくても、3種類の図柄のうち、ひとつは変化をつけたほうがおもしろいし、いちばん複雑なモチーフだから、くりぬくのも難しいし」
黄色い小鳥ちゃんは、ふんふん、とあいづちを打つ。
「橋長としても、玄関前に架けるのにちょうどいい長さじゃないかしら。うんと長くては不自然だけど、ひとつの石碑は一辺が80cm前後でしょ?4つ並べても320cm。渡るのにも、数歩ていどで済みそうだわ」
「全部で8基あるもんね、ちょうど片方4つずつ。図柄はおなじものがつながらないように、順番にね」
でも、残念なのは、
「橋らしきものが架かってる写真は、みつからないね」
ということだ。
アメリカ公使館の建物が映っている数少ない貴重な写真にも、橋らしきものは映っていないようだ。とくに、おなじ建物がホテル・メトロポールになってからの、正面からのアングルでばっちり映った写真にさえ、やはりそれらしきものは見られない。
地域資料室のアーカイブ映像を探しながら、がっかりする私に、
「庭のほうに架かっていたのかもしれないわ」
黄色い小鳥ちゃんは、明るい光をさしてくれた。
「庭から海岸に出られるように、通用口がもうけられていたのかもしれないわね」
「そうかぁ、馬車が通っていたくらいだもの、海岸沿いは主要な道だったはずだよね。よく使う出入り口だもの。潮の満ち引きを考えて、橋を架けたのかもしれない」
私はうれしくなって、手をたたく。
「それも、馬が渡れるように、石造りにしたのかもしれないよね。アメリカ公使館から馬車ででかけるときは、庭にある通用口から、この石造りの橋を渡って海岸通りにでたんだよ、きっと…」
満潮の頃、庭さきの雑草や季節の花の咲き誇るあしもとを、きらきらと海水が浸す光景を、私と黄色い小鳥ちゃんはおもいうかべた。
そこに、五稜の星や盾形の星条旗、白頭鷲の図柄のほどこされた石造りの橋が架かっていて、そこをゆっくりと、馬車が通っていったなら…。ある日の午後か、夕暮れか、静かな外国人居留地のそのひとこまをきりぬいた風景は、よりいっそう美しいものになるだろう。
そして、つぎの日曜日、私と黄色い小鳥ちゃんは、聖路加ガーデンの親水公園まで、アメリカ公使館跡の碑を見にでかけた。
じっさいに、石造りの記念碑をまえにしてみると…、
「ちょっと大きいわね」
と、黄色い小鳥ちゃんは、迷いに迷ったあげく、控えめにそう言った。
「うん、大きい」
と、私はあえて、おだやかにうなずく。
「それに、すごく重たそう」
「えぇ、とっても…」
私たちは、アメリカ公使館跡の記念碑をまえにして、文字通り、途方にくれた。
昨日、部屋のなかでいろいろたてた推理が、どれもしっくりあてはまらないような気がしたからである。ふたりとも、しばらく黙ったまま、どちらからともなく、ため息をついた。
「ちいさな橋の欄干にしては、背が高すぎる」
「それに、なにもこんなに重い欄干にする必要なんてない」
「だって、橋が落ちちゃったら、なんにもならないもんね」
「灯籠だなんて、とんでもない」
「どうかん。こんなに重たい火袋、作るわけないよ」
「それに、完全な正方形ではないし、どの石碑も、すこしずつ寸法がちがう」
「8基とも厳密な寸法で統一したわけではなさそうだね」
「並べてつなげるには、ぎこちない」
「当時の職人さんが、そんな雑な仕事をするわけないもんね」
残念だけれど、灯籠でもないし、欄干でもないし、塀でもないし、とにかく、並んでなにかひとつのものを成す、というタイプのものでは、ないということなのだろう。
「もっと自由で、おおらかで、素直なもの」
「それって、どんなの?」
と、黄色い小鳥ちゃんはきくので、
「わからない」
と、私は言った。
推理⑥やっぱりふつうに記念碑
どの記念碑も、微妙に寸法のちがう理由が引っかかる。
「だとしたら、これらは一つずつ、別の時期につくられた、なんてどうだろう」
私も、あきらめが悪い。
「カタチやサイズのだいたいの取り決めはあっても、完全に統一する目的はなかったっていうこと?」
「うん、それとも、複数の人が別々につくったとか」
「または、違う時期に順次つくっていった」
私たちは思いを馳せる。
推理⑦それならいつつくられたのか
「さっきも読んだけど、川崎晴郎氏は、ビンガム公使のときに、アメリカ独立100周年を記念して、日本の腕のいい石工につくらせたのではないか、と言っているね」
「いっぽう、川崎房五郎氏は、スイフト公使のときに、アメリカ公使館がこの地にあった証として、記念碑をこの地に残し、赤坂へ移り去ったのだ、と言っているわ」
ここで、明治9年説と、明治23年説がうかぶ。
「それから、さっき読んだ本のなかに、麻布善福寺の時代に、もうすでにあって、築地に移転するときに持ち込んだ、という考え方もあったね。それをほのめかすように、いま中央区にあるアメリカ公使館跡の記念碑の案内板にはね、”最後の移転により”ここに残った、という言葉を使っているの。まるで、移転のたびに記念碑も移動したけど、最後は置いていった、みたいな言い方!」
それは、すこし勘ぐりすぎかもしれないけど。
とりあえず、これは明治8年より前説、としておこう。すなわち、アメリカ公使館が、築地外国人居留地に移ってくるまえ、ということだ。
それはそうとして、この記念碑がどのタイミングでつくられたのか、著名な先生方や研究者のあいだでも、意見がわかれる、ということになる。
と、私は先ほどの、『中央区区内散歩』を読んでいて目がとまった。私はふいに顔をあげ、
「そのどれでもないような気がする」
と、確信めいた声をだした。
「どうしたの、きゅうに?」
と、黄色い小鳥ちゃんは振り向く。
「ねぇ、ねぇ、小鳥ちゃん。グラント前大統領が来日したんだね、明治12年に」
私は文字を目で追いながら言った。
「そうね、退任後、世界周遊の旅に出たというわ。日本に着いたのは、ちょうどアメリカ独立記念日の前の日で、それから2か月ほど滞在したのね。そのとき、新富座を観劇したという話が残っているわ。70名にもおよぶ芸者衆が踊りを披露したのね。赤白の横すじの着物に、藍色に白い星形を染め抜いた襦袢、という衣装を着て歓迎したの。すばらしい劇場だと、褒めていただいたみたい」
「でしょ?」
と、さらに私は、クララの日記をふたたび手にとる。
「グラント前大統領の歓迎会に、クララも招かれているよ。明治12年7月4日だね。在住アメリカ人たちによる歓迎会と、独立記念日を祝うパーティーが、延寮館で催されたんだね。グラント前大統領は、横浜についたあと、特別列車で新橋まで、そこから宮内庁の用意した御用馬車で延寮館へ向かったんだって。しかも、クララのエスコートをしたのは、アメリカ公使館のビンガム公使だよ!」
と、私はしょうしょう、身をのりだす。
「ねぇ小鳥ちゃん、私、思うんだ。前大統領が日本に来たんだよ。とうぜん、ビンガム公使との会話や、用務上の打ち合わせとか、いろいろあったはずだし、それになにより、アメリカ公使館に、寄ると思わない?」
「たしかに、我が国の公使館ですもの」
そこで、私はたからかに宣言した。
「グラント前大統領に歓迎の意を表するために、ビンガム公使は、あの記念碑をつくって飾っておこうと思ったんだよ、きっと!」
ほぅ、と黄色い小鳥ちゃんは言った。
「ようするに、前大統領の来日に合わせてつくった、ということね」
うん、うん、と私は大きくうなずく。
「そういえば、ビンガム公使を日本に派遣したのは、グラント大統領だというわ」
「つながってる!もう決まりじゃん!」
と、私はいっきに華やいだ。
それでも、まだまだ検証する余地は残っていそうだ。でもとりあえず、ここで私と黄色い小鳥ちゃんは、明治12年説を、あらたに打ち立てたことになる。
「日本にいる我が国の同志が、誇りある国のシンボルをほどこした石碑をつくり、公使館の庭に並べてじぶんを歓迎してくれた…グラント前大統領にとっては、たいへん名誉なことにちがいないよね」
「えぇ、きっとご満足されたと思うわ」
私と黄色い小鳥ちゃんは、歴史の泉に、あらたな石を投げかけたような気持ちになった。
その石が、いつか水面に、きれいな弧を描くことを祈りながら。
つづく
♪参考文献「歩いてわかる中央区ものしり百科」中央区観光協会/「中央区区内散歩(三)」川崎房五郎 中央区企画部広報課 平成4年/「中央区の区民文化財」中央区教育委員会 平成3年/「郷土室だより第61号」安藤菊二 京橋図書館地域資料室 昭和63年/「築地外国人居留地」川崎晴朗 雄松堂出版 2002年/「築地明石町今昔」北川千秋 聖路加国際病院 昭和61年/「クララの明治日記」上・下巻 クララ・ホットニー 一又民子訳 講談社 1976年/「日記で読む日本史18 クララ・ホイットニーが綴った明治の日記」佐野真由子 臨川書店 2019年/中央エフエム84.0 中央区街角スケッチ
中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第222号 令和5年2月25日