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江戸時代、流人船は永代橋から出航した

先月、 日本橋箱崎町の道路愛称「箱崎北新堀通り」 について書きましたが、江戸時代の北新堀河岸と永代橋について調べていたら、面白い資料を見つけましたので、少しマニアックですがご紹介します。
永代橋は、江戸時代、隅田川に架かる5つの橋の1つで、江戸有数の商業地、繁華街だった深川へ渡るための重要な橋でした。橋の袂には船手番所があり、茶屋などの店が軒を連ね、人の往来も多く賑やかな場所でした。

さて、上の絵をご覧ください。永代橋の袂から船が出航する場面を描いたものですが、船の上には何やら檻に入った人達、橋の袂には船を見送る人達が泣いたり叫んだりしています。
この船は罪人を島へ送る「流人船」で、江戸時代、永代橋の袂から「流人船」が出航していました。

この絵の表題は「遠島出船の図」。以下の文が書かれています。

『遠島は図の如き船にて役人二、三人付き添い法螺貝を吹きて出船の合図となし、大船を繋ぎて島へ送る。江戸より流罪の者は永代橋より発し、大島、八丈島、三宅島、新島、神津島、利島、御蔵島、右七島の内に送る、又、江戸より佐渡に送ることあり。京大阪西国中国より流罪の者は薩摩五島の内、隠岐壱岐天草郡、右へ送る』

下の絵は、永代橋を出航した「流人船」が沖で伊豆七島に向かう大型の船に乗り換える様子。船には「るにんせん」と書かれた幟(のぼり)が立っています。
江戸時代、いわゆる島流し(流罪、遠島)は、死刑に次ぐ重刑でした。江戸や東日本で流罪となった受刑者は伊豆七島に送られました。江戸後期になると、七島のうち、八丈島、三宅島、新島の3島が流刑地となり、思想犯や重罪人は八丈島へ、比較的軽い罪人は三宅島と新島へ送られたそうです。 

 江戸時代、流人船は永代橋から出航した

また、永代橋の他にも、万年橋、霊岸島、芝の金杉橋から流人船が出航していました。永代橋からは、如何なることがあっても戻って来ることができない重罪人、万年橋や霊岸島、金杉橋からは、何年か後には特赦になる可能性のある罪人の船が出航しました。

下は江戸時代の地図で、それぞれ流人船の出航場所を示したものです。

 江戸時代、流人船は永代橋から出航した

ちょっとマニアックですが、江戸時代の流人船のお話でした。