写楽さい

■中央区歴史逍遥<5> 賀茂真淵没後250年③ 
~真淵が住んだ八丁堀組屋敷地と門人たち~

 賀茂真淵は江戸で国学の普及に尽くす。八丁堀与力同心組屋敷にある門人の与力邸を借りて住んだ。既述(①6/1)の佐佐木信綱著作「県居の九月十三夜」に登場する中から八丁堀組屋敷地に関連した人物に焦点を当ててみたい。

 上図は江戸後期の「八丁堀組屋敷細見図」(部分)である。ここに村田春海(絵図では「春見」になっている)や与力‣加藤家(加藤又左衛門、同橘三郎)の名が載っている(矢印)。現在地は日本橋茅場町二丁目辺り。

村田春海

村田春海 ■中央区歴史逍遥<5> 賀茂真淵没後250年③ 
~真淵が住んだ八丁堀組屋敷地と門人たち~

 真淵は江戸に出て、日本橋で干鰯問屋を営む村田春道宅へも身を寄せた。その子、村田春郷・春海兄弟は真淵の門人となる。村田春海(むらた‣はるみ、1746‐1811)は国学、歌道を学び、かなづかい、五十音の研究を行う。平安時代の漢和辞書『新撰字鏡』を発見した。著書に『和学大概』、歌集『琴後集』などがある。晩年は八丁堀組屋敷地に住む(写真は江戸期の地蔵橋付近〔上図参照〕)。十八大通としても知られ、深川本誓寺に葬られる。

加藤枝直・千蔭父子

加藤枝直・千蔭父子 ■中央区歴史逍遥<5> 賀茂真淵没後250年③ 
~真淵が住んだ八丁堀組屋敷地と門人たち~

 真淵は寛保元年(1741)、北八丁堀に初めて一家を構える。翌年、八丁堀組屋敷の町奉行所与力・加藤枝直(かとう‣えなお、1692‐1785)の屋敷地を借りた。加藤枝直は伊勢松坂の人、本姓橘氏、通称又左衛門。江戸に出て大岡越前守忠相配下の町奉行所与力となり信任される。青木昆陽を上司の大岡忠相に推挙したとされる。和歌を親しみ、真淵に庇護を与えた。歌集に『あづま歌』がある。

 その子、加藤(橘)千蔭(ちかげ、1735‐1808)も県門に入門し、作歌にすぐれ、春海とともに江戸派と称された。著作に『万葉集略解』などがある。能書家としても知られ、真淵の墓碑を揮毫した。また流麗な書体は「千蔭流」と呼ばれ、樋口一葉の筆致につながる。死後は両国回向院に葬られ、同院境内に説明板がある(写真)。(@AM )