受検予定の皆さま必見!? 第17回 中央区観光検定 “蔦重” 予想問題を作ってみました!(Part2)
皆さま、こんにちは。New River です。今年も残りわずかとなってきました。皆さまにとって、2024年はどんな一年だったでしょうか。
私は「中央区観光協会特派員」2年目となった今年も “月一ブログ” という自分の目標を何とかクリアすることができ、また中央エフエムのラジオ番組にも2度ほど出演させていただいて、おかげさまで満足のいく特派員活動ができたのかなと思っております。
さて、今年最後の New River のブログは、前回「受検予定の皆さま必見!? 第17回 中央区観光検定 “蔦重” 予想問題を作ってみました!(Part1)」の続編として、残りの予想問題5問とPart1に続いて蔦重にかかわる過去問2問(問題文に「蔦屋重三郎」または「耕書堂」
まずは、前回のブログ、Part1を少し振り返ってみたいと思います。
Part1(問1~5)では、蔦重が生まれ、活躍した時代の世の中の出来事、通油町への進出までの流れを予想問題にしてみました。
予想問題
問6.
安永3年(1774)に蔦重が編集長となって刊行した『細見嗚呼御江戸(さいけんああおえど)』の序文を書いた人物は次のうち誰でしょう。
ア.平賀源内(ひらがげんない)
イ.朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)
ウ.北尾重政(きたおしげまさ)
エ.恋川春町(こいかわはるまち)
【ねらい】
問6から問8は、蔦重と同じ時代を生きた人物とのかかわりを問う問題としました。
江戸の出版界において戯作者・狂歌師・浮世絵師らと様々なネットワークを構築して仕事をしていた蔦重を知るためには、蔦重の人間関係を見ることが一番の方法だと思います。
まずは、蔦重の名が確認できる最初の出版物といわれている、鱗形屋孫兵衛(うろこがたやまごべえ)版『細見嗚呼御江戸』(吉原遊郭ガイドブック)からの出題です。
【正解】
ア.平賀源内(ひらがげんない)
【解説】
ア.平賀源内(享保13年(1728)~安永8年(1779))は、江戸時代の奇才とも呼ばれ、エレキテル(摩擦を利用した静電気の発生装置)の復元、火浣布(かかんぷ、石綿を混ぜて織った不燃性の布)や量程器(りょうていき、歩数計)、磁針器(羅針盤)など多くの発明をしました。その他、本草学者(薬学・博物学者)として薬品会(博覧会)を開催したり、人気作家として戯作・浄瑠璃作品を発表したり、西洋画や源内焼(源内の指導によって讃岐国・志度(現在の香川県・さぬき市)で製作された陶器)を広めたりとマルチな才能を発揮した人物です。
そのような有名な人物が、また男色家だったといわれた源内が、吉原遊郭ガイドブックの序文を執筆したことで世間は大変な驚きだったようです。
イ.朋誠堂喜三二(享保20年(1735)~文化11年(1814))は、黄表紙などの戯作者であり、狂歌師(狂名「手柄岡持(てがらのおかもち)」)でもあります。本問選択肢ウの北尾重政とともに、初期の蔦屋を支えました。なお、身分は出羽国(現在の山形県と秋田県)・久保田藩、江戸留守居役(えどるすいやく、諸藩の江戸屋敷に常駐していた渉外担当役)でした。
ウ.北尾重政(元文4年(1739)~文政3年(1820))は、江戸・小伝馬町生まれの浮世絵師で、北尾派の祖といわれています。前回 Part1・問5でご紹介した、蔦重・最初の出版物である『一目千本(ひとめせんぼん)』(安永3年(1774)刊、遊女を挿花に見立てた絵本形式の遊女評判記)で挿絵を描いた他、本問選択肢イの朋誠堂喜三二の黄表紙などで挿絵を描いて、初期の蔦屋を支えました。
エ.恋川春町(延享元年(1744)~寛政元年(1789))は、黄表紙の祖といわれる戯作者であり、浮世絵師、狂歌師(狂名「酒上不埒(さけのうえのふらち)」)でもあります。やはり春町も蔦屋から多くの黄表紙を刊行しています。
恋川春町という名は、自身が駿河国(現在の静岡県中東部)・小島藩(おじまはん)、江戸留守居役であり、小島藩上屋敷が江戸・小石川春日町にあったこと、浮世絵師・勝川春章(かつかわしゅんしょう、享保11年(1726)~寛政4年(1792))に私淑していたことに因んでつけたとされています。本問選択肢イの朋誠堂喜三二と仲が良く、喜三二の黄表紙などで度々挿絵を描いていました。
問7.
江戸の出版界において蔦重は戯作者・狂歌師・浮世絵師らと様々なネットワークを構築して仕事をしていました。では、蔦重とともに仕事をしていない人物は次のうち誰でしょう。
ア.葛飾北斎(かつしかほくさい)
イ.十返舎一九(じっぺんしゃいっく)
ウ.曲亭馬琴(きょくていばきん)
エ.歌川広重(うたがわひろしげ)
【ねらい】
問6に続き、蔦重と同じ時代を生きた人物とのかかわりを問う問題で、本問では蔦重とともに仕事をしていない人物が問われています。
【正解】
エ.歌川広重(うたがわひろしげ)
【解説】
前回 Part1・問1でご紹介したように、蔦重は寛延3年(1750)に生まれ、寛政9年(1797)に47歳(数え年で48歳)で亡くなっています。一方、歌川広重は蔦重が亡くなった寛政9年(1797)に生まれているので、蔦重とともに仕事をすることはありませんでした。
他の3人(ア~ウ)の蔦重とのかかわりは次のとおりです。
ア.葛飾北斎(宝暦10年(1760)~嘉永2年(1849))は、新千円札に描かれている『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』(天保元年(1830)~同3年(1832)頃刊)でもおなじみの日本有数の浮世絵師です。
最初は前述・問6・エでご紹介した浮世絵師・勝川春章の門で、勝川春朗(かつかわしゅんろう)として主に役者絵を描いていましたが、のちに寛政4年(1792)頃から蔦屋で仕事をするようになり、後述・問8・ウの山東京伝や本問選択肢ウの曲亭馬琴らと組み、黄表紙や狂歌絵本を出すようになりました。
なお、上記『冨嶽三十六景』など、私たちがよく目にする作品が刊行されるのは、蔦重が亡くなった後になります。
イ.十返舎一九(明和2年(1765)~天保2年(1831))は、黄表紙や滑稽本などを執筆した戯作者です。享和2年(1802)に初編を出した『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』(文政5年(1822)完結)が大ヒットして一躍流行作家となりました。
一九は、駿河国の武士の子として生まれました。江戸、大坂での武家奉公を経て、寛政6年(1794)に江戸に戻って蔦重と出会い、蔦屋に寄宿しながら「ドーサ引き」と呼ばれる仕事(紙などの素材ににじみ止めを塗る作業)をするようになりました。そしてその後、すぐに戯作者として活躍を始め、蔦屋から黄表紙を刊行しました。
ウ.曲亭馬琴(明和4年(1767)~嘉永元年(1848))は、江戸・深川の幕臣(旗本)に仕える下級武士として生まれました。寛政2年(1790)に後述・問8・ウの山東京伝の門に入り、その後、蔦屋の番頭となり、最初は戯作者として黄表紙を手掛けていましたが、のちに読本作家に転向しました。代表作は『高尾船字文(たかおせんじもん)』(寛政8年(1796)刊)、『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』(文化11年(1814)初版~天保13年(1842)完結)などがあります。
※ 下図は、蔦重と他の4人の生涯(年齢は数え年)が比較できるようにまとめたものです。
葛飾北斎『画本東都遊(えほんあずまあそび)』(享和2年(1802)刊)(大伝馬町本町通り(日本橋大伝馬町13-8先)にある「耕書堂」跡の説明板より)
東京都立図書館のホームページに次のような説明がありました。
>蔦屋耕書堂という絵草紙屋の店先を描いた絵です。店の入り口には蔦屋重三郎の名前入りの看板が立ち、山東京伝の著作や狂歌本の宣伝が並び、店の奥には錦絵が置かれ、旅支度の武士が選んでいる姿が描かれています。
『画本東都遊』に収載されている絵はもともと寛政11年(1799)、蔦屋重三郎から刊行された『東遊』という狂歌本に墨絵で描かれていた挿絵です。この本の画家葛飾北斎は浮世絵師として有名ですが、蔦屋から何冊もの狂歌絵本を刊行していました。狂歌本の中から絵の部分だけを抜き出し、彩色摺りにして刊行したものが『画本東都遊』です。
蔦重は寛政9年(1797)に亡くなっていますので、この説明にある「蔦屋重三郎」は、“二代目 蔦屋重三郎”となった番頭の「勇助」だと思われます。二代目は『画本東都遊』や『東都名所一覧(とうとめいしょいちらん)』(寛政12年(1800)刊)など、北斎の狂歌絵本を数多く出版しており、北斎との関係は二代目の方が深かったようです。
中央大橋と佃大橋との間、隅田川テラス(右岸)にあるモザイク壁画。中央区立福祉センター作業室の皆さまが、葛飾北斎『冨嶽三十六景 武陽佃嶌(ぶようつくだじま)』(天保2年(1831)頃刊)をモチーフにして製作されました。
勝どき4丁目の真円山東陽院(しんえんざんとうよういん)には十返舎一九墓があります。同院入口にある石碑(写真左)は、弁士・漫談家である徳川夢声(とくがわむせい、明治27年(1894)~昭和46年(1971))が書いたものです。
問8.
江戸の出版界において蔦重は戯作者・狂歌師・浮世絵師らと様々なネットワークを構築して仕事をしていました。では、蔦重とともに仕事をしていた人物で、浮世絵師ではない人物は次のうち誰でしょう。
ア.大田南畝(おおたなんぽ)
イ.喜多川歌麿(きたがわうたまろ)
ウ.山東京伝(さんとうきょうでん)
エ.東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)
【ねらい】
引き続き、蔦重と同じ時代を生きた人物とのかかわりを問う問題で、本問では蔦重とともに仕事をしていた人物で、浮世絵師ではない人物が問われています。
本問は前述・問7とは違って、蔦重とかかわりのあった人物がどの分野で活躍していたかまでを理解しておかなければ、正解を導くことはできません。そして、それらを知ることは、蔦重の人間関係、仕事の範囲などを知るうえでとても重要です。
【正解】
ア.大田南畝(おおたなんぽ)
【解説】
ア.大田南畝(寛延2年(1749)~文政6年(1823))は、江戸時代を代表する狂歌師(狂名「四方赤良(よものあから)」)であり、黄表紙などの戯作者でもありますが、浮世絵師ではありません。別号「蜀山人(しょくさんじん)」といい、身分は武士(幕臣・御家人)でした。
南畝が撰んだ狂歌撰集『万載狂歌集(まんざいきょうかしゅう)』(天明3年(1783)刊)により狂歌が爆発的に流行し、蔦重も「蔦唐丸(つたのからまる)」という狂名で狂歌界に参入、南畝との親交を深めていきました。蔦重は狂歌を詠み合う舞台を用意し、その場で生まれた作品を “蔦重版狂歌撰集” として蔦屋から刊行しました。
イ.喜多川歌麿(宝暦3年(1753)頃~文化3年(1806))は、日本を代表する浮世絵師ですが、いつどこで生まれたかなどの詳細はわかっていません。蔦重との出会いの詳細も不明ですが、歌麿は蔦重の男気に、蔦重は歌麿の才能に、お互い惚れ込んだといわれています。やがて歌麿は蔦重の家に寄宿しながら様々な作品を生み出すようになります。
まずは、天明元年(1781)に『身貌大通神略縁記(みなりだいつうじんりゃくえんぎ)』という戯作の挿絵を描き、このとき初めて「哥麿」という名を使いました。その後も、『画本虫撰(えほんむしえらみ)』(天明8年(1788)刊)などの狂歌絵本や『婦女人相十品・ポッピンを吹く娘(ふじょにんそうじっぽん・ポッピンをふくむすめ)』(寛政2年(1790)頃刊)などの美人大首絵で大成功し、当代一流の浮世絵師となりました。
ウ.山東京伝(宝暦11年(1761)~文化13年(1816))は、最初は前述・問6・ウの北尾重政を師匠とした北尾政演(きたおまさのぶ)という名の浮世絵師で、のちに黄表紙や洒落本などの戯作者に転向し、洒落本の世界で第一人者となりました。
戯作者となり、蔦重との交流も盛んになっていきましたが、寛政の改革(天明7年(1787)~寛政5年(1793))で『仕懸文庫(しかけぶんこ)』(寛政3年(1791)刊)などの洒落本が発禁となり、手鎖五十日の刑(両手に手錠がかけられ自宅謹慎)を受け、版元の蔦重も重過料(罰金刑)が科せられ、身上半減の処分を受けました。その後、読本の世界に進出しましたが、中国文化に明るく重厚な作品を書き上げていた、かつての弟子、前述・問7・ウの曲亭馬琴に次第に圧倒されるようになりました。
なお、浮世絵師・北尾政演としての代表作は、吉原花魁の絵姿と花魁自筆の書を組み合わせた書画集『青楼名君自筆集(せいろうめいくんじひつしゅう)』で、天明4年(1784)に蔦重が刊行しています。
エ.東洲斎写楽(宝暦13年(1763)頃~文政3年(1820))も生年不明で謎の浮世絵師といわれています。わかっているのは、寛政6年(1794)から翌年にかけて『三代目大谷鬼次の江戸兵衛(さんだいめおおたにおにじのえどべえ)』など、約140点の浮世絵が蔦屋から刊行されたということだけです。その正体については諸説ありますが、最も有力なのが阿波国(現在の徳島県)・徳島藩お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろべえ)だとするものです。
亀島川に架かる亀島橋西詰南側にある東洲斎写楽の説明板。写楽(斎藤十郎兵衛)は江戸・八丁堀の地蔵橋付近(現在の日本橋茅場町3丁目付近)に住んでいたとされています。
※ 下表は江戸時代中後期の主な文芸・出版物の種類とその概要、本ブログに出てくる当該分野で活躍した人物と代表作品をまとめたものです。蔦重を勉強していると、いろいろな人物や出版物が出てくるので、それらを一表にして整理してみました。
問9.
次の1)~4)は蔦重の功績を説明した文章です。正しいものの組合せは次のうちどれでしょう。
1)蔦重は、通油町に初めて「耕書堂」という書店をオープンさせ、一流の版元(出版人)として、江戸文化の隆盛に大いに貢献した
2)蔦重は、吉原のガイドブックや遊女評判記なども刊行し、吉原の経済的要請に応え、文化的側面を支えた
3)蔦重は、戯作者・狂歌師・浮世絵師らと多様なネットワークを構築して仕事をした
4)蔦重は、自身でも戯作・狂歌本・浮世絵などの各分野で多くの作品を自作した
ア.1と2
イ.2と3
ウ.3と4
エ.1と4
【ねらい】
本問は蔦重の功績を問う正誤&組合せ問題です。
【正解】
イ.2と3
【解説】
1)「耕書堂」を初めてオープンさせたのは、蔦重が生まれ育った吉原でした。過去問やインターネットなどを見ていると、通油町に初めてオープンさせたように思いがちですが、前回 Part1・問5のとおり、義兄が経営する吉原・大門口、五十間道の引手茶屋に間借りして開業させたのが最初でした。
2)そのとおりです。蔦重は、前回 Part1・問5のとおり、吉原のガイドブックといわれる『吉原細見』や『一目千本』という、遊女を挿花に見立てた遊女評判記などを刊行し、地元・吉原に大きな経済効果をもたらし、江戸文化の隆盛に大いに貢献しました。
3)そのとおりです。蔦重は、朋誠堂喜三二、恋川春町、大田南畝、山東京伝などの戯作者・狂歌師や喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽などの浮世絵師らと出会い、彼らを育て、彼らに育てられ、浮世の時代を生き抜きました。
4)蔦重は「蔦唐丸」という狂名で狂歌を詠み、戯作も作っていますが、多くの作品を自作したとまではいえないと思います。また、蔦重自身が浮世絵を描いて作品を残したという記録もないと思います。
蔦重の一番の功績は、戯作者・狂歌師・浮世絵師らと様々なネットワークを構築し、版元(出版人)として彼らの作品をプロデュースしたことにあります。
問10.
蔦重は、江戸時代に「版元」(出版人)として活躍しましたが、
1)「コンテンツの創造、保護及び活用の促進に関する法律」(通称:コンテンツ促進法)において、「コンテンツ」は「映画、音楽、演劇、文芸、
2)経済産業省・書店振興プロジェクトチームのレポート(令和6年10月4日)によれば、「コンテンツ」の一つである出版物の販売額は年々減少し、書店店頭での購入金額も減少している中で、ネット書店による売上は増加傾向にあり、2013 年には約1,600億円であった売上は、2022 年度には約2,900億円まで拡大。全体の購入額割合においても、8.1%から20.5%まで伸長している
3)「コンテンツ産業」は、「デジタルコンテンツ」としての流通拡大や海外市場への進出などにより、将来的には成長産業としての期待が持たれている。また、地域産業としての育成、地域ブランドへの貢献、地元への経済波及効果など地域振興面からの期待も大きい
4)「コンテンツ」は、知的財産権(特許権や著作権、商標権などの総称)の一部であり、
ア.1つ
イ.2つ
ウ.3つ
エ.4つ
【ねらい】
最後は、テーマ問題「蔦屋重三郎が生きた時代と今」の「今」を意識し、蔦重が生業(なりわい)としていた「出版業」を今の時代の「コンテンツ産業」に照らして作問してみました。
そして、本問は「コンテンツ」や「コンテンツ産業」の特徴をそのまま正しく理解するために、国の法律や刊行物などを参考にして、すべて正しい問題文にしました。
なお、「コンテンツ」とよく似た概念に「メディア」という言葉がありますが、前者が「コンテンツ」(内容・中身)ということで、映画、音楽、演劇、文芸、
【正解】
エ.4つ
【解説】
1)そのとおりです。「コンテンツの創造、保護及び活用の促進に関する法律」(以下「コンテンツ促進法」)の第2条に「コンテンツ」の定義があります。
2)そのとおりです。同プロジェクトチームのレポートによれば、現状の本の流通を考えると、書店、図書館、ネット販売の中で、書店だけが減っており、既に約4分の1の市町村において、書店がない状況に陥っているそうです。蔦重が現代にタイムスリップしてきたら、さぞびっくりするでしょうね…。
3)そのとおりです。問題文は、国立国会図書館から2008年5月に刊行された「レファレンス 」(No.688)という刊行物の『コンテンツ産業振興の政策動向と課題』(山口広文著)を参考にしました。少し古いですが、「コンテンツ産業」の特徴は今も基本的に変わっていないと思います。
また、「コンテンツ産業」の地域振興面からの期待という点では、まさに蔦重は大江戸八百八町に大きな経済効果をもたらし、江戸文化の隆盛に大いに貢献したといえると思います。
4)そのとおりです。知的財産権を侵害する行為に対し、「
蔦重が生きた安永4年(1775)にも、鱗形屋(前述問6『細見嗚呼御江戸』の版元)が他の版元と同じものを無断で出版して処罰されるという重板事件(前回 Part1・問5ご参照)が起こっていました。当時は知的財産権という概念はありませんでしたが、木の板に文字や絵を彫って版(木版)を作る整版(凸版印刷)を行っていたため、その板木(版木)に対する所有権(板株=版権)はあったといわれています。
過去問
第15回 試験問題
問74.
この人物は江戸時代の出版人(版元)で、江戸文化を形成した立役者の一人です。天明3年(1783)には現在の日本橋大伝馬町に地本問屋「耕書堂」を開業して多くの実績を残しました。大伝馬町本町通りに説明板が設置されているこの人物は次のうち誰でしょう。
ア.鶴屋喜右衛門
イ.山東京伝
ウ.蔦屋重三郎
エ.丸屋九左衛門
【正解】
ウ.蔦屋重三郎
第16回 試験問題
問51.
蔦屋重三郎は、天明3年(1783)、現在の日本橋大伝馬町に地本問屋である( )を開き、大田南畝や山東京伝などの戯作者、葛飾北斎・喜多川歌麿などの絵師の作品を出版するなど江戸一流の版元として多くの実績を残しました。大伝馬町本町通りに説明板があります。( )に当てはまる名称は次のうちどれでしょう。
ア.鶴屋
イ.耕書堂
ウ.有隣堂
エ.須原屋
【正解】
イ.耕書堂
おわりに
今年最後のブログは「受検予定の皆さま必見!? 第17回 中央区観光検定 “蔦重” 予想問題を作ってみました!(Part2)」ということでお届けしましたが、いかがだったでしょうか。
11月・12月と二月連続して “蔦重” 予想問題を作り、自分自身とても勉強になり、自分なりに蔦重のことを深掘りできたように思います。
さあ、年が明けると、いよいよ大河ドラマが始まります。また、これから来年にかけて各地で蔦重にかかわる様々なイベント(例えば、浅草ビューホテルでの『大河ドラマ「べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~」初回放送パブリックビューイング in 台東』(2025年1月5日)、東京国立博物館での『特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」』(2025年4月22日~6月15日)など)が開催されます。これはもう今から楽しみでなりません! でも、試験勉強も頑張らないといけませんよね~。こうなったら、1月のブログも蔦重のことを書こうかな~笑
それでは、少し早いですが、皆さま、どうぞよいお年をお迎えください!
※ 今回の「予想問題」も、Part1と同様、中央区観光協会および中央区観光検定運営事務局とは関係なく、私 New River がブログとして個人的見解を独自にまとめたものです。従いまして、予想が外れたり、細心の注意を払って作成しましたが、万一記載内容に誤りがあったとしても責任を負いかねますので、悪しからずご了承ください。
【主な参考文献】
・福田智弘監修『MSムック 蔦屋重三郎と江戸の文化を彩った天才たち』メディアソフト、2024年12月1日発行
・別冊太陽(No.89 Spring/1995)『蔦屋重三郎の仕事』平凡社、1995年4月24日発行
・鈴木俊幸著『新版 蔦屋重三郎』平凡社、2012年2月10日発行
・車 浮代著「蔦重の教え」飛鳥新社、2014年2月1日発行
・『NHK大河ドラマ 歴史ハンドブック べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~〈蔦屋重三郎とその時代〉』NHK出版、2025年1月5日発行