受検予定の皆さま必見!? 第17回 中央区観光検定 “蔦重” 予想問題を作ってみました!(Part1)
来年1月5日(日)から、NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(べらぼう~つたじゅうえいがのゆめばなし~)がスタートします。
番組ホームページによれば、その内容は「日本のメディア産業、ポップカルチャーの礎を築き 時にお上に目を付けられても面白さを追求し続けた人物 “蔦重”こと蔦屋重三郎の波乱万丈の生涯。笑いと涙と謎に満ちた“痛快”エンターテインメントドラマ!」となっているそうです。
そして、2月1日(土)には、第17回 中央区観光検定が実施され、今回のテーマはまさに「蔦屋重三郎が生きた時代と今」(10問程度出題)となっています!
そこで、今回のブログは、いつもと趣向を変え、「受検予定の皆さま必見!? 第17回 中央区観光検定 “蔦重” 予想問題を作ってみました!(Part1)」と題し、来年2月の試験問題を予想するという大胆な試みをしてみました。
ついては、予想問題を10問作成しましたので、この Part1では予想問題を5問、さらに蔦重にかかわる過去問も5問ご紹介したいと思います。大河ドラマの予習、そして皆さまの試験勉強にお役立ていただければ幸いです。
予想問題
問1.
蔦重が生きた時代の元号にないものは次のうちどれでしょう。
ア.宝暦(ほうれき)
イ.明和(めいわ)
ウ.寛政(かんせい)
エ.享和(きょうわ)
【ねらい】
“蔦重”
江戸時代は多くの元号がありますので(慶長から慶應まで全部で36)、蔦重が生きた時代の元号を頭に入れておけば、その時代の出来事や時系列が整理しやすくなると思います。
【正解】
エ.享和(きょうわ)
【解説】
蔦重は、寛延3年(1750)に江戸の遊郭・吉原(現在の台東区千束)で生まれ、寛政9年(1797)に「江戸わずらい」と呼ばれた「脚気(かっけ)」により47歳(数え年で48歳。江戸時代の平均寿命は30~40歳代。ただし、10歳の平均余命は50歳前後といわれています)で亡くなりました。
享和は蔦重が亡くなった寛政の次の元号(1801~1804)です。
蔦重が生きた時代(47年間)には、次の6つの元号がありました。
江戸時代に元号を変える理由は、①新天皇による改元(代始改元)、②地震や大火事が起きたのを一新する改元(災異改元)、③干支で大きな変革が起こる巡り合わせの年に差し替える改元(革年改元)、④徳川将軍の代替わりによるとみられた改元がありました。
それにしても、蔦重が生きた47年間に元号が6つもあったなんてちょっと驚きですね!
問2.
蔦重が最も活躍した時代の徳川将軍と老中の組み合わせとして正しいものは次のうちどれでしょう。
ア.徳川家重(とくがわいえしげ)と田沼意次(たぬまおきつぐ)
イ.徳川家治(とくがわいえはる)と田沼意次
ウ.徳川家治と松平定信(まつだいらさだのぶ)
エ.徳川家斉(とくがわいえなり)と松平定信
【ねらい】
歴史上の人物を学ぶうえで大切なことは、その人物がどのような時代に生きていたか(時代背景)を知ることです。
本問は蔦重が生きた時代に「誰がどのような政治・政策を行っていたか」を問う問題です。
【正解】
イ.徳川家治(とくがわいえはる)と田沼意次
【解説】
蔦重が活躍していた時代(全盛期は、問5で後述する「耕書堂(こうしょどう)」を吉原から日本橋地区・通油町(とおりあぶらちょう)に進出させた、天明3年(1783)頃といわれています)は、田沼意次(享保4年(1719)~天明8年(1788))が政権を握っていた「田沼時代」(明和4年(1767)~天明6年(1786))でした。
意次は、9代将軍・徳川家重(在位期間:延享2年(1745)~宝暦10年(1760))、続いて10代将軍・徳川家治(在位期間:宝暦10年(1760)~天明6年(1786))の側に仕え、安永元年(1772)に老中となり、幕府の財政を救うため、それまで見られなかった商業資本の利用など積極的な政策を行いました。その結果、江戸の町は活気にあふれ、文化の花が開いて、蔦重の業績も拡大していきました。
しかし、浅間山の噴火や飢饉の拡大などによって人気を失い、天明6年(1786)に後ろ盾でもあった将軍・家治が亡くなると、老中を辞任させられ、ライバルであった松平定信(宝暦8年(1758)~文政12年(1829))が11代将軍・徳川家斉(在位期間:天明7年(1787)~天保8年(1837))のもとで老中首座となり、質素倹約に努め、綱紀粛正に力を入れた寛政の改革を進めました。その結果、世の中の風潮は一転し、出版統制により蔦重も処罰を受けることになりました。
※ 下図は、蔦重の生涯に本問選択肢ア~エの徳川将軍と老中を並べて対比させたものです。
問3.
蔦重が生きた時代に起きていない出来事は次のうちどれでしょう。
ア.富士山の大噴火
イ.天明の大飢饉
ウ.浅間山の大噴火
エ.石川島・人足寄場(にんそくよせば)の設置
【ねらい】
前述(問2)のとおり、歴史上の人物を学ぶうえで大切なことは、その人物がどのような時代に生きていたか(時代背景)を知ることです。
本問は蔦重が生きた時代に「どのような出来事があったか」を問う問題です。
【正解】
ア.富士山の大噴火
【解説】
富士山の大噴火(宝永大噴火)は、蔦重が生まれる前の宝永4年(1707)に起きています。
天明の大飢饉は、天明2年(1782)から天明8年(1788)まで続いた江戸三大飢饉(他二つは「享保の大飢饉」「天保の大飢饉」)の一つです。天明3年(1783)に発生した浅間山の大噴火と異常気象も農作物の被害を拡大させ、深刻な飢饉状態が全国に広がりました。
浅間山の大噴火(天明大噴火)は、上記のとおり天明3年(1783)に発生した噴火です。天明2年(1782)から続く飢饉状態は、江戸や大坂などで起こった米屋や商家などへの打ちこわし(天明7年(1787))に発展し、これに強い危機感を持って断行された改革が松平定信による寛政の改革です。
石川島・人足寄場は、寛政2年(1790)に松平定信が寛政の改革の一環として、火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)の長谷川平蔵(はせがわへいぞう)の提言を受け、江戸・石川島(現在の佃)に設置しました。これは、天明の大飢饉などにより農村から多くの人々が都市部へ流入し、無宿人(むしゅくにん。戸籍から外された人)が増加し、犯罪も増えたことから、江戸の治安を守るために設置したものです。
こうして見てみると、蔦重が生きた時代も自然災害などがあって大変な時代だったようですね…。
問4.
蔦重が生まれた育った場所は次のうちどこでしょう。
ア.鎌倉河岸(かまくらがし)
イ.元吉原(もとよしわら)
ウ.新吉原(しんよしわら)
エ.本所(ほんじょ)
【ねらい】
人が生まれ育った場所・環境は、その人の性格や行動様式などの形成に大きな影響を持つといわれています。
そういう意味で、蔦重の生い立ちを知っておくことは、蔦重という人間を知るうえで、とても重要だと思います。
【正解】
ウ.新吉原(しんよしわら)
【解説】
前述(問1)のとおり、蔦重は寛延3年(1750)に江戸の遊郭・吉原で生まれ、7歳(数え年)のときに両親の離別により喜多川家に養子に入りました。
この喜多川家は吉原・大門口(おおもんぐち)の五十間道(ごじっけんみち)で引手茶屋(ひきてぢゃや。遊郭で客を遊女屋へ案内する茶屋)を営んでおり、その屋号が蔦屋であり、主人の蔦屋次郎兵衛(つたやじろべえ)は蔦重の義兄(蔦重の養父の実子)といわれています。
吉原は幕府公認の遊郭があった場所ですが、当時は大人の社交場、流行の発信地という側面もあり、こうした場所・環境で生まれ育ったことによって、蔦重という人間が生まれたのだと思います。
本問選択肢の元吉原と新吉原の違いは、以下にも記述しましたが、吉原遊郭の移転前の場所と移転後の場所の違いです。
選択肢ア~エの4つの地名は、いずれも江戸時代に遊女屋や遊郭があった場所となります。
鎌倉河岸(現在の千代田区内神田付近)は、徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)頃、既に遊女屋があったとされる場所です。当時の遊女屋は幕府の非公認であったため、庄司甚右衛門(しょうじじんえもん)らの陳情により、元和3年(1617)、傾城町(けいせいまち。現在の日本橋人形町付近)に公認の遊郭が開設され、その場所が「葭原(よしわら)」とされ、のちに「吉原」に改称されました。
その後、明暦の大火(明暦3年(1657))によって浅草日本堤(現在の台東区千束)への移転を余儀なくされ、移転後の遊郭を「新吉原」、移転前の遊郭を「元吉原」と呼んで区別されるようになったのです。
しかし、宝暦年間(1751~1764)には、吉原に比べ揚代(料金)が安く、江戸の中心地から距離も近い、本所(現在の墨田区の南側)や深川(現在の江東区の西側)などで未公認で営業している遊郭(「岡場所」といいます)の人気が高まりました。
問5.
蔦重は天明3年(1783)に「耕書堂」を吉原から日本橋地区・通油町に進出させました。この通油町とは現在のどのあたりの町になるでしょうか。
ア.日本橋本町(にほんばしほんちょう)
イ.日本橋本石町(にほんばしほんごくちょう)
ウ.日本橋大伝馬町(にほんばしおおでんまちょう)
エ.日本橋小伝馬町(にほんばしこでんまちょう)
【ねらい】
蔦重が仕事をしていた場所に関する問題で、「耕書堂」を吉原から進出させた日本橋地区・通油町(以下「通油町」)の現在の町名を問う問題です。
旧町名の現在の町名を問う問題は、過去(第8回 試験問題 問94や第10回 試験問題 問17など)にも出題されています。今度の検定試験のテーマが「蔦屋重三郎が生きた時代と今」となっていますので、出題される可能性が高いかもしれません。
【正解】
ウ.日本橋大伝馬町(にほんばしおおでんまちょう)
【解説】
蔦重は、安永2年(1773)、前述(問4)の吉原・大門口、五十間道の引手茶屋に間借りをして「耕書堂」という書店(貸本屋)を開業させました。
やがて鱗形屋孫兵衛(うろこがたやまごべえ。万治年間(1658~1661)に江戸・大伝馬町で創業した老舗の地本問屋)が刊行する『吉原細見』(吉原遊郭ガイドブック)の卸し、小売を手掛けるようになりました。
安永3年(1774)春、鱗形屋孫兵衛版『細見嗚呼御江戸(さいけんああおえど)』の編集長となり、同年7月には、蔦重・最初の出版物となる『一目千本(ひとめせんぼん)』を刊行しました。
安永4年(1775)には、鱗形屋孫兵衛が手代(使用人)の重板(他の版元と同じものを無断で出版すること)によって処罰されたことをきっかけに、自らが版元となって蔦重版『吉原細見』の刊行を始めました。
安永6年(1777)には、間借りをして営業していた「耕書堂」をすぐ近くに独立させ、新たな店舗を設けました。
そして、天明3年(1783)、『吉原細見』の出版を独占、通油町の書店・丸屋小兵衛(まるやこへえ)の店舗と株(営業権)を買い取り、「耕書堂」を通油町に進出させ、戯作・狂歌本・浮世絵などを扱う江戸屈指の地本問屋(じほんどいや)に成長しました。
通油町は芝居小屋(堺町(さかいちょう)の中村座、葺屋町(ふきやちょう)の市村座など)が集まる芝居町(現在の日本橋人形町付近)に近く、当時は本に書かれたものが芝居になったり、
多くの書店、一流の版元が並んでいた通油町への進出は、蔦重のサクセス・ストーリーの中で、特に大きな意味があったと思います。
その通油町は現在の日本橋大伝馬町あたりで、灯油を売る店があったことに因んで命名されたといわれています。
大伝馬町本町通り(旧日光街道)(日本橋大伝馬町13-8先)には「耕書堂」跡の説明板(下の写真)があります。
過去問
第4回 試験問題
問18.
江戸時代の出版人(版元)である蔦屋重三郎は、日本橋大伝馬町に洒落本や浮世絵などを扱う地本問屋を開業しました。蔦屋が開いた書店名はどれでしょう。
ア.津多屋
イ.吉原細見堂
ウ.朋誠堂
エ.耕書堂
【正解】
エ.耕書堂
第5回 試験問題
問61.
天明3年(1783)、現在の日本橋大伝馬町に地本問屋「耕書堂」を開き、山東京伝や葛飾北斎、東洲斎写楽などの作品を出版して江戸一流の版元(出版人)とうたわれた人物は次のうち誰でしょう。
ア.柄井弥惣右衛門
イ.杵屋勝三郎
ウ.村田春海
エ.蔦屋重三郎
【正解】
エ.蔦屋重三郎
第6回 試験問題
問28.
江戸時代、通油町(現在の日本橋大伝馬町)に店を構えた蔦屋重三郎の職業は、次のうちどれでしょう。
ア.隅田川の川開きで花火を打ち上げる花火師
イ.油問屋を経営した店主
ウ.出版から浮世絵の小売りまで幅広く扱う版元
エ.小道具や古着などを扱う問屋
【正解】
ウ.出版から浮世絵の小売りまで幅広く扱う版元
第10回 試験問題
問18.
日本橋大伝馬町の本町通りには、かつてここに洒落本や浮世絵などを扱う地本問屋「耕書堂」があったことを示す説明板があります。この問屋を開業した江戸時代の出版人は次のうち誰でしょう。
ア.鶴屋喜右衛門
イ.蔦屋重三郎
ウ.西村屋与八
エ.魚屋栄吉
【正解】
イ.蔦屋重三郎
第12回 試験問題
問64.
日本橋大伝馬町には、かつてこの地に蔦屋重三郎が耕書堂を開業したことを示す説明板が立っています。では、耕書堂の内容を説明する文章として正しいものは次のうちどれでしょう。
ア.店内で読書ができる貸本屋
イ.洒落本や浮世絵などを扱う地本問屋
ウ.破損した本や浮世絵を修復する専門業者
エ.歴史書や絵巻物などを収蔵する図書館
【正解】
イ.洒落本や浮世絵などを扱う地本問屋
おわりに
今回のブログは「受検予定の皆さま必見!? 第17回 中央区観光検定 “蔦重” 予想問題を作ってみました!(Part1)」と題し、来年2月の検定試験の予想問題5問と過去問5問をご紹介しました。
試験勉強のやり方は人それぞれだと思いますが、自分で予想問題を作ってみるのも効果的な試験対策の一つだと思います。問題を作って答えを用意する作業、あるいは逆に答えを用意して問題を作る作業は、色々な選択肢を用意する必要があるので、正解の内容と関連する人物や出来事を幅広く学べ、それぞれの違いを含め、より深掘りすることができると思います。
中央区観光検定の試験勉強において過去問チェックは必須ですが、チェックが一段落したら、ちょっと遊び感覚で予想問題を作ってみてはいかがでしょうか。
次回 Part2(問6~問10)は、蔦重と同じ時代を生きた人物の問題が中心となります。乞うご期待!?
※ 今回の「予想問題」は、中央区観光協会および中央区観光検定運営事務局とは関係なく、私 New River がブログとして個人的見解を独自にまとめたものです。従いまして、予想が外れたり、細心の注意を払って作成しましたが、万一記載内容に誤りがあったとしても責任を負いかねますので、悪しからずご了承ください。
【主な参考文献】
・福田智弘監修『MSムック 蔦屋重三郎と江戸の文化を彩った天才たち』メディアソフト、2024年12月1日発行
・別冊太陽(No.89 Spring/1995)『蔦屋重三郎の仕事』平凡社、1995年4月24日発行
・鈴木俊幸著『新版 蔦屋重三郎』平凡社、2012年2月1日発行
・車 浮代著『蔦重の教え』飛鳥新社、2014年2月10日発行