yaz プロフィール
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横浜開港と杉村甚兵衛の活躍
前月のブログで、万延元年(1860)「五品江戸廻送令」として「生糸、水油、蝋、呉服、雑穀の5品は必ず一度江戸の問屋に廻し、問屋の手を経てから横浜に回すようにせよ」と発令し、江戸経由で取引するように命じたことを報告しました。まず江戸の需要を満たして、猶余りがあれば外国人に売っても良いという事で、生糸の江戸廻し御用達に、長崎屋源右衛門と丁子屋(杉村)甚兵衛両名をが任命されました。(現在日本で米騒動と覚える事件が起こっていますが、国内の需要が満たされれば外国に輸出しても良いなど幕末と状況が酷似していますね。現代はどう解決するのか、日本人が怒って打ちこわしなどを起こすのでしょうか?) この法令は相当の効果を齎し(もたらし)、文久元年の三港の輸出額は前年より減少しました。これに対して外国商人が抗議を行って、元治元年(1864)には廃令同様となりました。甚兵衛は生糸貿易に大いに手腕をふるって莫大な利益を収めていたので、米騒動には巻き込まれなかったようです。 慶応元年(1865)4月には、長崎屋源右衛門と共に長崎会所の御用達を命ぜられ、帯刀を許されました。長崎屋と丁子屋の屋敷の距離は、添付の日本橋の地図が示すように約600m程度で、至近であったので共同作業はうまく推移したようです。
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二代目 杉村甚兵衛襲名
初代 杉村甚兵衛は不幸にして二人の息子を病のため失ったので、京都の弟甚兵衛と相談の上その三男米治郎を養子に迎えた。米治郎は明治元年16歳の時に京都から東京に上ってきた。生まれつき肝の据わった男で、それを示す少年の頃のエピソードがある。唐物屋を経営していた実家に某夜浪人が押し込みに押し入ったが、大人たちはいち早く屋根伝いに逃げてしまい、一人取り残された。米治郎は5、6人の浪人に囲まれ、白刃をつきつけられて、 「小僧、金のある所に案内しろ。下手に隠すと命はないぞ」と。お定まりの脅し文句を並べて迫られたが、米治郎は、「私は最近小僧に来たばっかりやさかい、何も知りません」 と言ったきり応じなかったので、とうとう浪人たちはあきらめて店先に積んであった毛布を少しばかり担いで、しぶしぶ引き上げたという話が残っている。 東京に出てからは、名を甚三郎と改め豪放な養父と厳格な養母によって厳しく鍛えられた。明治10年(1877)、25歳の時に、養父は隠居したので家督を譲られて二代目甚兵衛を襲名した。
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