yaz プロフィール
-
車の左側通行
日本国内の自動車は左側通行ということは皆が知っていることです。いつから左側通行は国内で定説となったのでしょうか? 1743年生まれのスウェーデンの医学と植物学の学者であるツユンベリーはオランダ船の船医となって世界一周旅行を実施した時、1777年8月に長崎に到着しました。その年の3月4日に江戸に向けて出発し1ケ月滞在して、長崎に戻り12月に長崎を離れ、後に旅行記を書いて出版しました。この旅行記の日本に関する部分に日本の道路事情が書かれいますので紹介します。 「日本人は第一級の民族に属しヨーロッパ人に比するものである。国民性の堅実さ、職務の遂行に見られる不変性・有益性を追求し促進しようとする国民のたゆまざる熱意には驚嘆せざるを得ない。法の執行は力に訴えることがなく、政府も独裁的でもない。飢餓はほとんどなく、あっても稀である。これらは信じがたいことではあるがまさしく事実であり注目を引くに値する。おおげさにその長所をほめたり、ことさらその欠点をあげつらったりしていません。 この国の道路は一年中良好であり、かつ排水の溝を備えている。上りの旅をする者は左側を、下りの旅人は(上りから見て)右側を行く。もう一方を不安がらせたり邪魔したり害を与えたりすることがないように配慮している。悉く理にかなった考えや優れた規則に従っている様子を見せている。 今の日本の道路事情を見ると、駅構内の歩く方向も駅によって右になったり左になったりしています。渋谷のスクランブル交差点の場合には、上りと下り方向が混在し、私などは恐怖を感じてたたずんでしまうほどです。どちらでも良いから統一して欲しいものです。 左側通行となった理由は、ご存知のように「武士が左腰に刀を差している」ことに起因します。右に刀を差した武士が相対する武士と遭遇したら、刀がぶつかってしまい年中「無礼者」と言って切り合いが発生したことでしょう。左側通行は理にかなった道路事情と言えるでしょう。数百年を経過しても当然として普及しています。今は刀を差す人はいませんが、車の通行については左側通行は当然として受け入れています。
歴史・文化その他yaz
記事を読む
-
司馬江漢 東海道五十三次(日本橋)着
司馬江漢の東海道五十三次と広重の絵の比較を何回かに分けてブログで私の解釈に基づき紹介します。今回は広重の東海道の出発点・江漢の到着地点である「日本橋」を取り上げます。 左側の広重の絵は江戸から京都へ向かう東海道の起点である日本橋(朝の景)。背景に高札場と晒し場が描かれており、ここが日本橋の南端であることが判ります。その東海道を描いたシリーズの巻頭を飾るにふさわしい参勤交代の大名行列が朝早く江戸を出発する様子が描かれています。また、魚を天秤棒で担いだ一団が、向こう岸の魚河岸から仕入れを終え、行商に出かける様子も描いています。江戸で一番賑わっている早朝の日本橋の活気が伝わってきます。 一方右側の絵は司馬江漢の東海道五十三次の終着地点「日本橋(着)」です。左手前にオランダ人の従者であるパタヴィア人(現在のインドネシア人)の傘持ちを描いています。パタヴィア人が江戸に来た史実はありませんが、オランダの東インド会社がインドネシアを占領していることは知られていたのでオランダ人の代わりに描いたのかもしれません。また、南蛮服のサムライが中央に見えます。印章落款に「相州於鎌倉七里ヶ浜」と書かれていますので、文化10年(1813年)夏から秋にかけて鎌倉に居住した時期に描かれたものと想像されます。オランダ商館長の江戸参府は1850年まで継続していましたから、広重が東海道53次を描いた時期には、長崎屋も石町に存在しオランダ人の江戸参府も継続していました。オランダは東インド会社を経営し、パタヴィア人を採用していたので日本にいてもおかしくないと考え登場させたのかもしれませんね。幕府はセキュリティの観点からオランダ人を一般市民に晒すことはなかったので、パタヴィア人を出現させてオランダの雰囲気を醸し出したのかもしれません。 広重の東海道五十三次の元絵は、「司馬江漢」の東海道五十三次ではないかという説があります。片方はパタヴィア人・一方は棒手振りと余りに異なっています。なぜでしょうか?
歴史・文化日本橋・京橋周辺yaz
記事を読む