酒問屋と新川
江戸時代、酒問屋があったのは新川、茅場町、新堀の三か所でした。日本橋に大きな自宅があった鹿島清兵衛という人が新川に最も大きい店を持っていました。沖から酒が来ると、小さな舟で寄っていき取り分け、店に持って行って樽をころがし上げます。酒は上方から来るので、新酒が出来ると小さな船に積んで帆を張って持って来ます。最初に乗り込んだ船を「新酒」の一番と言います。ボージョレヌーボーですかね?それを船の者が陸に持って来て、赤い襦袢を着て踊っているうちに、運び込んだ舟が空になります。ここで一番と認定された酒は、あとから上ってもボージョレNo.1と名付けられていますから、先に積むことになります。
沽券図に示しているように永代橋近傍に「井上」という問屋が2軒ありました。どちらか一方か両方の家に錨を下したのが、ボージョレ一番です。最も永代橋に近いのが井上重次郎家、もう一方が井上甚太郎という家が南新堀1丁目にありましたが実際どちらがボージョレ一番対象の酒問屋か判りません。どちらも永代橋の至近です。細長い伝馬船に乗っけて、品川沖から太鼓を叩いてやって来るという派手この上ない仕掛けですが、この目で見てみたかったものです。
酒を降ろしてしまうと、町の者は佃の住吉様へお礼参り。やはり赤い襦袢を着て、傳馬でお参りに行きます。この時上に立った若い衆が櫂(かい)を振り回します。新たについたお酒はお燗ではなく、冷(ひや)で飲んで値段を決めます。値段が決まってしまえば、お燗をしてお客さまにご馳走しますが。最初は茶碗で利いて、塩梅を見るだけです。
酒問屋
船が着くと大きな杭に幟(のぼり)を結わえ付け、船頭だけが問屋に上ります。若い衆には泊りの宿が準備されていますので、そこで待機します。沖に出るのは大きな船で、36反の大きさの帆ですから桁が太い。柱の他に網が4本ついています。屋形船になっており、その両方に網が2本ずつ渡る訳です。中のろくろに樫の棒を挿して、それにつかまって「えんやえんや」と言って帆を巻きます。そういう船が酒樽100~200本の酒を積んで幾杯も入って来ます。船にはそれぞれ名前があって、「角福」とか「山上」とかいう風に、いろいろの印がついています。上には苔で屋根が葺いてあるし、両側も垣根のようにして雨が来ても濡れないようにしています。
注: 着物地の場合 1反は 1着の着物を仕立てられる長さをいい約 11m 40cm ~ 12m。36反となると約400mとなるでしょうか?着物地の「幅」を適用して良いのか不明です。
陸と川を歩く方向は逆
日本橋から新川に来るには右側を通り、神田川でも同様に右側を通ります。どんな横川でも右側を歩きますから、船頭が棹を肩に当てるのはいつも左です。だから新川で船を操っていた人達の肩は左側が固くなっていました。こうしないと、歩いている人と船頭の竿がぶつかってしまいます。
日本橋に中井銀行(現みずほ銀行)を作った「中井新次郎」という人の家がありますが、新川で酒問屋も運営していました。大きな商いをしていましたが、蔵がないので6つも7つも蔵を借りて商いを行っていました。多くの蔵のセキュリティのレベルは低く、多くは「こわれ倉」といわれていました。この酒を盗みに行くやつが多くいて、徒党を組んで泥棒に入って、一人が桶を持って行って盗み出します。これを繰り返して酒の出荷をしようとすると、「空っぽ」ということもあったようです。
添付の絵は稲荷橋辺りに集まった船を示しています。大きな船で荷物を運び、小さな船に酒を詰め替えて茅場川経由で酒蔵に運びます。
参考文献:
1. 中央区郷土室だより 63号
2. 中央区沿革図集(日本橋編)
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