二代目 杉村甚兵衛襲名

初代 杉村甚兵衛は不幸にして二人の息子を病のため失ったので、京都の弟甚兵衛と相談の上その三男米治郎を養子に迎えた。米治郎は明治元年16歳の時に京都から東京に上ってきた。生まれつき肝の据わった男で、それを示す少年の頃のエピソードがある。唐物屋を経営していた実家に某夜浪人が押し込みに押し入ったが、大人たちはいち早く屋根伝いに逃げてしまい、一人取り残された。米治郎は5、6人の浪人に囲まれ、白刃をつきつけられて、
「小僧、金のある所に案内しろ。下手に隠すと命はないぞ」と。お定まりの脅し文句を並べて迫られたが、米治郎は、「私は最近小僧に来たばっかりやさかい、何も知りません」
と言ったきり応じなかったので、とうとう浪人たちはあきらめて店先に積んであった毛布を少しばかり担いで、しぶしぶ引き上げたという話が残っている。
東京に出てからは、名を甚三郎と改め豪放な養父と厳格な養母によって厳しく鍛えられた。明治10年(1877)、25歳の時に、養父は隠居したので家督を譲られて二代目甚兵衛を襲名した。
「洋反の杉村」

世間には「文明開化」の新しい風が吹きまくっていた。明治4年には丁髷(ちょんまげ)をやめてザンギリ頭が奨励され、横浜港の貿易もますます活況を呈していた。明治5年9月には、新橋~横浜間に鉄道が開通し、海外貿易に一層拍車がかかり、舶来の織物すなわち洋反物の需要は益々増大し、目新しい品が続々輸入された。この情勢を見た甚兵衛は「これからは洋反物の世の中になる。洋反物を一生の仕事にしよう」と決心した。明治12、13年ごろには横浜本町2丁目に横浜店を開設し、外人商館との取引を一層拡大し、「洋反の杉本」の基礎を築いた。
輸入されていた洋反物は、国内では殆ど生産できず、輸入品に頼る以外になかったので、外国商社の鼻息は荒く且つ横暴で、上手くさばくには度胸と決断と資力が必要であった。
甚兵衛は見込みを立てたら大胆な約定をし、多少の傷やシミなどには苦情を言わず、綺麗に金を支払って購入した。これで商社の信頼を得て、輸入約定を結んだ商品は総代理店権を貰ったようになり次第に有利な条件での取引が可能となった。外人商社と直接取引できない人達は喜んで杉村に買いに来た。
色モスリンの国産化

明治10年ごろから日清戦争頃までは洋反物は需要がますます増大し、国内生産に見るべきものがなかったので、輸入品の独壇場であった。中でもその中枢となったのはモスリンである。
注: モスリンとは、木綿や羊毛などの毛糸を平織りにした薄地の織物の総称
始めは緋と紫の無地物だけであったが、多色物の需要が出はじめたので、甚兵衛も国内で友禅加工にトライしたが十分な成果を得られなかった。外国に下絵を送って染めさせた二色染めの評判が良く大いなる売れ行きであった。甚兵衛は商館を経ないで直接本国から輸入することを思い立ち、直輸入交渉を行った。直輸入した友禅は評判が良く盛んな売れ行きを示した。
【参考文献】
杉村の百二十年: 昭和42年8月 杉村友三郎