丁稚奉公

長崎屋源右衛門末裔出版「父が子に語る長崎屋源右衛門の生涯」を手に入れたので、何回かに分けてトピックを紹介します。今回は前回紹介した「杉村」と関係の深かった「長崎屋」の息子が丁稚奉公に出た様子を紹介します。
長崎屋の長男「忠太郎」は金座の役人をしていた某家に養子に出されたので、世継ぎは次男の多三郎でした。多三郎が生まれた頃には長崎屋は昔日の面影はありませんでした。他家に丁稚奉公に出ている多三郎の様子が記述されているので『丁稚奉公の悲惨さ』の例として紹介します。
江戸・明治時代に商家に生まれた以上は、商売を覚えるためには丁稚奉公からスタートすることが基本でした。多三郎の場合、丁稚奉公に行った先は現在創業170年のアパレルメーカー老舗です。初代杉村甚兵衛が近江から出てきて草履を脱いだのが長崎屋であり、第11代源右衛門が甚兵衛を友人の丁吟(丁子屋、小林吟衛門)に世話し、そこからのれん分けして丁子屋となり、現在に至っているので親しい関係からこういう話になったのでしょう。多三郎はここで丁稚奉公を始め、この店で実業家として大成しました。小学校も出ていない多三郎の人生訓は「生家を安泰にしておけば、自分のことは考えずとも主家がよいように処置するという物でした。」まさに、長崎屋が徳川家とともに260年間を言い表したような人生訓であった。しかし多三郎は江原姓を名乗っていません。
丁稚奉公:丁稚奉公 (でっちぼうこう)とは、一般的に、少年が一定期間、商人の家や職人の家に奉公し、雑用などの仕事をすることを指します。転じて、年少のころから下働きとして勤め始めることや、雑役や使い走りなどにつかわれることを意味することもあります。
- 丁稚 (でっち):商人や職人の家に奉公する少年。小僧とも呼ばれます.
- 奉公 (ほうこう):主人に仕えること、他人に召し使われて勤めること.
- 丁稚奉公:丁稚として商家などに奉公すること、またはその者.
- 意味:年少のころから下働きとして勤め始めること、雑役や使い走りなどにつかわれること
三男栄五郎の丁稚奉公

11歳で日本橋富沢町の丸丁時薩摩商店に奉公に出されました。薩摩商店の初代薩摩治兵衛は、次男が丁稚に出された杉村甚兵衛の幼友達で、甚兵衛が上京して順調にやっているのを近江で聞いて甚兵衛を頼って上京し、丁吟に入り後にのれんわけしてもらいました。丸丁字として独立した木綿問屋という関係があります。三河や遠州の織物を作ることを生業としている機屋(はたや)から主として晒(さらし)木綿を仕入れ、それをそのまま、あるいは浴地やメクラ縞、カスリ、裏地等に染色加工して地方の小売商に卸す商売をしていた。子供衆(小憎のこと)は日の出一時間前に起床、店の内外の掃除、銀行郵便局、運商業者への使い走りなどを行い、荷造りや子供衆では力の足りない仕事は大体大人衆(口入屋から来る中年の者で、これは何年たっても給金があがらないし、地位もそのまま)がやるが、輸送用具も自転車もなく、車と言えば第八車で馬力は運送屋によって用いられた。徒歩か車が主力をなしていた。「雪の降る夕方など両国橋を渡り、あるいは深川の高橋の先の染物屋迄荷物を運ぶ時の苦しさなどを手記の中で述べている。服装も木綿の縞の袷で手足の感覚もなくなるまで冷えて、心ならずも棍棒を上げっぱなしにして泣き出してしまったこともあるようです。」
こうして日没後まで働くと店を閉めて自由時間が与えられるのですが、学校教育を経ていない者が多いので全て自習で、読み書きそろばんを身に付けます。昼間の重労働で居眠りが出たりして思うに任せぬ日が続くらしい。こうした子供衆を5年位やると、若い衆に言い渡しがされます。若い衆は店の内だけで働きます。外出する時は特に宅持(妻を貰い店宅に住んでいる)に願い出、その許しがなければできません。外に用事が出来ると公私の別なく子供衆や男衆に命じます。若い衆は店の仕事をするのが主力であり、人数も一番多く働く部署も仕入れ関係・得意先関係・加工関係・会計関係などがあります。何年かやると持ち物の変更の言い渡しがあり、一通り各係を歴任すると宅持が合議して、誰それはそろそろ宅を持たせたらということになり、異議がなければ本人に内示されます。27~28歳になっています。同時に重役や主人にも内報され、無条件に話は進みます。
当の本人は一週間程度閑を貰って国に帰り、両親や親せきにも相談して結婚相手を決めます。帰店後正式に宅持の申し出があり、番頭さんの仲間入りが出来ます。宅持になると羽織を着ることが許され、各部署の主任になり重役の諮問に応ずます。
古い者から重役になります。重役になると店の全責任をとるようになり、主人は重役に全てを委任した形となります。主家内部のことにまで相談にのり、建議もしたり、主家の財産管理まで担当します。