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横浜開港と杉村甚兵衛の活躍

前月のブログで、万延元年(1860)「五品江戸廻送令」として「生糸、水油、蝋、呉服、雑穀の5品は必ず一度江戸の問屋に廻し、問屋の手を経てから横浜に回すようにせよ」と発令し、江戸経由で取引するように命じたことを報告しました。まず江戸の需要を満たして、猶余りがあれば外国人に売っても良いという事で、生糸の江戸廻し御用達に、長崎屋源右衛門と丁子屋(杉村)甚兵衛両名をが任命されました。(現在日本で米騒動と覚える事件が起こっていますが、国内の需要が満たされれば外国に輸出しても良いなど幕末と状況が酷似していますね。現代はどう解決するのか、日本人が怒って打ちこわしなどを起こすのでしょうか?)

この法令は相当の効果を齎し(もたらし)、文久元年の三港の輸出額は前年より減少しました。これに対して外国商人が抗議を行って、元治元年(1864)には廃令同様となりました。甚兵衛は生糸貿易に大いに手腕をふるって莫大な利益を収めていたので、米騒動には巻き込まれなかったようです。

慶応元年(1865)4月には、長崎屋源右衛門と共に長崎会所の御用達を命ぜられ、帯刀を許されました。長崎屋と丁子屋の屋敷の距離は、添付の日本橋の地図が示すように約600m程度で、至近であったので共同作業はうまく推移したようです。

苗字・帯刀を許される

苗字・帯刀を許される 横浜開港と杉村甚兵衛の活躍

大事件が発生。

大事件が発生します。甚兵衛が五品廻送令に従って、江戸鉄砲洲の長崎屋倉庫から生糸を船に積んで横浜に廻送したのを、幕府の隠密が密輸船と誤解し、横浜運上所に「風聞書」(世間の噂等を書き留めたものや日記等)を差し出しています。風聞書の大筋は次の通りです:

『舩松町弐丁目長崎会所構内住居用達長崎屋源右衛門と新材木町家持用達丁子屋甚兵衛は、長崎会所御用品扱と称していろいろの品を申し立て、幕府から金二十万両(現在価値で200億円相当)を拝借し、そのお下げ金のうちおよそ2万両を奥州筋の生糸の買い出しに回し、百二十六個程のパッケージを横浜表に廻送した。』

その際船に乗り込んだものは、長崎会所付役人三浦啓之助・同用達丁子屋甚兵衛、同人手代、用達長崎屋源右衛門手代一人の計五人で御用提灯並びに絵符(物資を輸送する際の荷物の証明を行うための荷札)を立てていた。買い入れた生糸は横浜表に回して売り捌き、利益のうち幕府の利益金がいくら、甚兵衛の取り分いくらと歩合があるらしい様子。

5人の中の一名、三浦 啓之助(みうら けいのすけ)は、嘉永元年11月11日〈1848年12月6日〉 生誕、明治10年〈1877年〉2月26日)死去〉で、新選組隊士。幕末期の洋学者・佐久間象山とその妾・お蝶の子で、本名は佐久間 恪二郎。さくま かくじろう

誤った内容の風聞書回覧の憂き目に会いましたが、それ以外全てが順調に進んだわけではありません。三港を開港し5ケ国との貿易を許した大老・井伊直弼が、万延元年(1860)3月に水戸藩士に討たれました。所謂桜田門外の変です。以降勤皇・佐幕派が激しく争う血生臭い世が続きました。米を始め諸物価が高騰し、暮らしにくくなった江戸の町人たちも、慶応二年(1866)5月には徒党を組んで江戸の町を打ち壊しに暴れまわりました。

その頃のアジビラによると、

『札差を手はじめに打ち壊し、江戸町々に有之候唐物屋渡世の者共残らず打ちこわし、その後は八丁堀組屋敷同心とも居宅ことごとく同様に致すべきもの也』と書かれ、6月2日から4日にかけて四ツ谷から本所までの横浜商いをしている者、米屋、富裕な町家などが襲撃されました。幸い甚兵衛は難を逃れたものの、いつ危険が襲ってくるかもしれない恐怖の日々を過ごしたそうです。

【参考文献】

1. 中央区沿革図集(日本橋編)

2. 杉村の百二十年: 昭和42年8月(1967) 杉村株式会社