芭蕉と水道
芭蕉は29歳の時(1672年、寛文12年)故郷の伊賀上野から江戸へ出てきて、日本橋本舩町の名主の家に落ち着いた。日本橋小田原町の幕府出入りの魚問屋であった、弟子の杉山杉風(さんぷう)の計らいで、深川の芭蕉庵に入ったのは延宝8年(1680)37歳の時で、それ迄の9年の間に水道に4年ほど関わったようである。(許六の『風俗文選』の作者列伝によると4年間らしい)
「世に功を残さんため、武州小石川の水道を修め4年になる。速やかに功を捨て、深川芭蕉庵に入り出家す。年三十七」
水道工事に関係した4年間にどのような地位で水道工事に関わったのか、いろいろの説がある。
・ 斎藤月琴の『武江年表』によると、普請奉行であったという説があるが、ちょっと信じられない。
・水利の才があって、工事の設計に当たっていたという説もあるが、藤堂家の家臣で元武士であった人間が、雇夫というのも信じられない(魯庵の『桃青伝』)
江戸の水道は樽屋、奈良屋、喜多村の三町年寄りの所管で、名主「小沢卜尺」の紹介で芭蕉は、一時町年寄りのもとで水道関係の仕事に従事していたようである。仕事内容を知ったうえである程度の管理能力を求められたと想像される。
苦しい生活
卜尺の家を借宿として俳諧の道まっしぐらの積りであったが、日常生活にも事欠く現状であった。水役の仕事を手伝って得た僅かばかりの副収入で、苦しい生活の助けにしていた。芭蕉が水道工事に従事した延宝5年から芭蕉庵に入庵するまでの4年間に大掛かりな水道工事はなく、従って収入は些少であった。
芭蕉は毎日仕事があるわけではなく、惣払(「惣払」は、惣村などの農村共同体が、年貢や諸役をまとめて支払うことを指す)などの作業が行われる時だけ、関係する町の人々の指図や事務に携わるという比較的余裕のある仕事でした。延宝8年冬に深川の芭蕉庵に移るまで、住居を転々として一定せず放浪していたようであるが、芭蕉庵に至って定住したと考えられる。俳人住所録によると、「小田原町小沢太郎兵衛(卜尺)店・松尾桃青」とはっきりしている。店というのは長屋なのか、一戸なのか、一戸建ての借家なのかはっきりしないが、一戸を構えていたらしい。
芭蕉庵は深川六間堀のほとりにあった。杉山杉風が持っていた広い土地のなかで、生簀(いけす)に付設した番小屋に少々手を加えて住めるようにしたもの。芭蕉は杉風の世話でここに一人静かに住むことになった。李下という門下から芭蕉を貰い、庭に植えると繁茂してきたので、人は芭蕉庵と呼んだ。芭蕉自身もこれを俳号とするようになった。
「茅舎(ぼうしゃ)水を買う、水苦くエンソ(どぶねずみ)が咽(のど)をうるほせり」という句を書いている。草庵には良い水がなかったので、市中の廻水屋の水を買って飲まなければならなかった。水は水ガメの中に入れておくので、冬になると凍ってしまう。のどが渇くとどぶネズミのように、苦い氷をかじって咽を潤すしかない。
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