石町の鐘撞堂(鐘撞堂)と蕪村
鐘楼の下で与謝野蕪村が夜半亭と号して俳諧の集いをしていたと言われています。時の鐘が頻繁に鳴る所で句会が本当に開催されたのでしょうか?ここで言う「下」とはどういう意味でしょうか?
辻源七は、江戸時代に日本橋石町で「石町の時の鐘」の鐘撞役を務めた民間の鐘役ですが、鐘楼銭の実入りが豊かで常時7~8人の若い衆がごろごろしていたようです。鐘楼の形はやぐら形で窓もなく、鐘楼内で俳諧の集いを開催するなど無理だったでしょうから、鐘楼下というのは、下ではなくて「近くで」とか「近隣で」という意味であろうと考えます。
【辻源七の鐘撞について】
- 代々江戸城内の鐘役を務めていた辻源七の屋敷内に鐘楼が設けられました。
- 町家が建て込んできたため、1700年に屋敷裏の空地に鐘楼を建築しました。
- 鐘撞役の収入は、410町の家持一軒ごとに所定の金額を徴収して賄いました。
- 江戸の最大の城下町であった江戸の標準時を知らせ、毎刻鐘を撞きました。
- 石町時の鐘は、鐘撞き役であった辻源七の書上によると、寛永三年(1626)に本石町3丁目へ鐘楼堂を建てて鐘を撞いたことが記されており、鐘の音が聞こえる範囲の町からは「鐘楼銭」を集めて維持・運営が図られていました。
本石町に設置された時の鐘は、何度か火災にあって破損したため修理や改修が行われました。現在の銅鐘には「寛永辛卵四月中流浣 鋳物御大工 椎名伊予藤原重休」の銘文が刻まれており、宝永八年(1711)に鋳造されたことがわかります。
「石町は江戸を寝かせたり起こしたり」と川柳にも詠まれた石町の鐘は明治をむかえて廃止されましたが、昭和5年(1930)に本石町から十思公園内に完成した鉄筋コンクリート造りの鐘楼へ移籍されて現在に至っています。
平成十七年三月 中央区教育委員
時の鐘の設置場所
寛永の頃(1704~1710)、江戸の俳壇に早野巴人宗阿と言う人がいました。其角が死んだ後、十年ほど京で過ごした後元文二年(1737)4月に江戸に舞い戻って石町の鐘近くに仮の住居を求めました。『夜半亭発句帖』の雁宕(がんとう)の序に、次のような文章が掲載されています:
”東都に入りて蕉地を尋るに、老婆のかたくなごとのみ残れりとて、つりがねのもとに蓮たかく荒れたる室のありけるにはひいりて、やがて夜半亭と号したのは、つきもるほどの穴もがなと、みとせよとせの春秋を詠めくらされし・・・・・・と書いている。巴人が亭号を夜半亭と号したのは、夜毎の鐘声に、夢まどかならぬ住居なので、かの有名な唐詩張継の「楓橋夜泊」に、「姑蘇城外の寒山寺、夜半の鐘声客船に至る」の句があるのを取って号したらしい。
同じ年、元文二年、後年俳人として書家として大名をなす与謝蕪村が、ーーー当時23歳、俳号宰町といっており、翌元文4年暮れから宰鳥と改めた。蕪村を号するのは全てを捨てて俳諧の宗匠宗阿を訪ねてからである。宗阿の没後「夜半亭」名を師匠から譲られた。当時の石町の裏通りは、夏の夜はことに藪蚊が多くて、団扇のひまなき風情がうかがえます。
日本橋本石町付近の地図
江戸時代の時間感覚はこの鐘の音を下に動いていました。
日比谷図書館に所蔵している「日本橋本石町付近の地図」によると、中央に時の鐘、その左に「つりがね横丁」があり、それを隔てた本学長三丁目が長崎屋の地所であったと書かれています。これは前頁の沽券図とは異なります。どちらが正しいのでしょうか?
【参考文献】
1. 父が子に語る長崎屋源右衛門の生涯: 長崎屋源右衛門末裔出版(平成31年1月15日) 江原英敏著
2.中央区郷土室たより
3. 中央区沿革図集(日本橋編)
オフィシャル