「丁稚(でっち)」奉公から独立

私の東京シティガイドクラブの仲間の一族が経営する『杉村株式会社』が昭和42年に発行した社史を入手し、内容の公開の許可を得ましたので、面白そうな部分を2回に亘って抜粋して紹介します。江戸新材木町(現日本橋堀留町)で合羽装束商を弘化4年(1847)に設立した会社で、初代甚兵衛(幼名:友次郎)は24、5歳のころに江戸に出て日本橋堀留町の木綿問屋「丁子屋吟治郎店」に奉公に住み込んで商売の道を修行します。
この社史にも本国3丁目の「長崎屋」が紹介されており、間口60間・奥行19間半の構えで、当主は名字帯刀を許された古い家柄、江原姓を名乗る通称11代目長崎屋源右衛門でした。当時は4年に一回の割合でオランダ商館一行が江戸に参向し、江戸城で将軍に面謁して献上品を差し出す慣例であった。この使節は長崎屋一軒に200人が逗留したが、その中には海外の進んだ知識を持つオランダの医師、科学者などもいたので、我が国の官医・大名・蘭学者も押しかけて知識の収集を行った。現在NHKで放映中の大河ドラマ「蔦屋重三郎」にも出ている平賀源内・杉田玄白・桂川甫周の他に、司馬江漢・島津重豪・奥平昌高も長崎屋を訪ねている。
24、5歳の旅姿の友次郎は長崎屋に草鞋をぬぎ、長崎屋に逗留した。大柄な友次郎は長崎屋源右衛門の注目を引くところとなり、奉公先を求めていた友次郎は源右衛門に奉公先として丁子屋を斡旋して貰った。これを切っ掛けに後年友次郎(後の甚兵衛)と源右衛門は親交を結び両者でビジネスを展開する。(詳細は後述)
丁稚奉公

丁稚時代の始めは掃除や炊事などをやらされたが、店の者が漬物に醤油をかけて残すのを、瓶に取っておいて煮物を作る時に使っているのが番頭の目に留まり、主人にも認められて番頭分にすぐ抜擢された。31~2歳頃には妻帯し、天保14年(1843年)には長男甚三郎が生まれた。弘化3年(1846年)の12月主家から暖簾を分けて貰って退身し、独立することを許された。
退身のとき、主家では丁子星のついた水引暖簾、扇子一対、相見甚祐城1反、薄色真岡裏1反、白足袋二足、黒八丈口壱欠その他の引き出物を送って、首途を祝ってくれた。初代甚兵衛は新材木町(現堀留町)に格好の屋敷を見つけ弘化4年に合羽装束商を開いた。子供の頃よく見た時代劇によく出てきたやくざが着る合羽(かっぱ)をメイン商品に設定した。丁子屋は木綿生地の問屋なので、遠慮して二次製品の合羽を主商品に選んだ訳ですね。仁義を切っている訳ですね。当時長崎にオランダから輸入されていた羅紗、呉良服綸などの舶来毛織物生地に着目していたのでしょう。長崎屋の記録によれば、日蘭貿易は長崎のおらんだ屋と江戸の長崎屋が独占していたので、ちょうど良い立場にいたと言えます。長崎屋と親しかった甚兵衛は、恐らく唐物を大量に仕入れ利益を上げていたと予想されます。
独立開業

新材木町に格好の店舗を見つけた甚兵衛は金百両(約1,000万円)で買い取り、弘化4年3月合羽装束商を開きました。添付の資料は杉村に残っていた版木を摺ったもので、創業時の営業取扱商品目録を示しています。当時は合羽に三度笠のやくざが多くて、需要が多かったのかもしれません(?)。
安政6年(1859年)幕府はしぶしぶ神奈川・長崎・箱館の三港を開きました。横浜村の中央、現在の神奈川県庁辺りに「運上所」を設けました。横浜の貿易額は長崎・箱館を上回り全国貿易額の2/3を占める程でした。その中心が生糸であり、横浜に集中し過ぎたので江戸に入る品が少なくなり一般庶民は物価高騰に苦しみました。万延元年(1860年)幕府は「五品江戸廻送令」を発布して、「生糸・水油・蝋・呉服・雑穀の5品は一度江戸の問屋に回して、問屋の手を経てから横浜に回すようにせよ」と云うことにしました。生糸の江戸廻し御用達に長崎屋源右衛門と丁子屋甚兵衛が任命されました。商機を見るに敏な甚兵衛は生糸貿易に手腕をふるって莫大な利益を収めました。慶応元年(1865年)には長崎会所の御用達を命ぜられ帯刀を許された。
丁子屋の順調な旅立ちであった。次回は大正4、5年頃の杉村の店の様子を紹介します。
【参考文献】
杉村の百二十年: 昭和42年8月 発行者; 杉村株式会社 取締役社長 杉村友三郎