TODA BUILDINGの裏「文化歴史の道」に
「歌川広重住居跡」の案内板が復活
TODA BUILDINGの建設工事で長らく姿を消していた「歌川広重住居跡」の案内板が復活しました。
上の写真は、TODA BUILDINGの裏側、新たに「文化歴史の道」と名付けられた通りで、ビルの壁面に「歌川広重住居跡」の案内板の他、3つの文化遺産の案内板や展示がされています。
新たに設置されたものもありますのでご紹介します。
11月2日、京橋のTODA BUILDINGがグランドオープンしました。TODA BUILDINGには、芸術文化の拠点として」、ミュージアムや現代アートギャラリー、カフェなどが集結しています。
2019年に開業した隣のミュージアムタワー京橋と合わせ、“アートと文化が誰にも近い街” をコンセプトに「京橋彩区」と名付けられ、芸術とアートの街、京橋の中心地となっています。
TODA BUILDING開業についてはこちらの特派員ブログをご覧ください。
おめでとう! TODA BUILDING が開業しました。(by 東京ダンボさん)
復活した「歌川広重住居跡」の案内板
こちらが新しくなって復活した「歌川広重住居跡」の案内板です。
歌川広重は「東海道五拾三次」や「名所江戸百景」などの風景画で有名な浮世絵師ですが、嘉永2年(1849)から死去するまでの約10年を当時、大鋸町(おおがちょう)と呼ばれたこの場所で過ごしました。
「文化歴史の道」の地図によると、TODA BUILDINGの通りを挟んだ向かい側、現在、京橋日殖ビルがある一角に住居がありました。
【案内板の内容です】====================================
歌川広重住居跡
浮世絵師の歌川広重(1797-1858)が嘉永2年(1849)から死去までのおよそ10年を過ごした住居跡です。広重は幕府の定火消同心の安藤源右衛門の長男として、八代州河岸(現在の千代田区丸の内二丁目)の火消屋敷で生まれました。13歳の時に父母を失い、父と同じく定火消同心になりましたが、文化8年(1811)15歳の時に歌川豊広の門人となり、翌年には広重の号を与えられ、歌川を称することを許されました。
霊岸島も保永堂から出した「東海道五拾三次」以来、風景画家として有名になり、江戸についても「東都名所」「江戸近郊八景之内」などを残しました。特に、晩年に描いた「名所江戸百景」は、当時大鋸町と呼ばれていたこの地での代表作です。住居は、幕府の奥絵師(御用絵師)狩野四家のうち、中橋狩野家の屋敷の隣にあり、2階建ての独立家屋だったといいます。
協力:中央区教育委員会
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広重が大鋸町で暮らした時期に安政の大地震が起こります。代表作「名所江戸百景」は、広重が大地震からの復興を祝って江戸の街を描いたと言われていますが、広重が大鋸町で過ごした期間については、天明の大地震後に一時的に転居していたとの説もありますので、この話は、また別の機会にブログに書きたいと思います。
「中橋狩野家屋敷跡」の案内板
新たに設置された案内板です。
ビル建設に伴って、2016年から2020年にかけて建設地の発掘調査が行われ、狩野家の屋敷の遺構が発見されました。案内板には、屋敷には池があって、その中から絵の具を溶かす皿が多数出土したことなど、遺構の写真とともに説明されています。
「文化歴史の道」の案内板によると、屋敷の場所は、TODA BUILDINGの南東側の一角にあたります。
【案内板の内容です】====================================
中橋狩野家屋敷跡
江戸時代初期、この地は入堀でした。入堀は17世紀中ごろまでには埋め立てられ、大鋸町という町人地になりました。大鋸町には幕府奥絵師(御用絵師)である江戸狩野四家の宗家である中橋狩野家の屋敷があり、幕末まで続きました。ほかの三家は、鍛冶橋狩野、木挽町狩野、浜町狩野です。中橋狩野家の初代は永徳の孫の安信で、江戸時代初期、京都にいたところ江戸に呼ばれて宗家を継ぎ、中橋狩野家を興しました。一族で有名な探幽は、安信の兄にあたります。探幽は鍛冶橋狩野家を興しました。
また、この地では平成28年(2016)から令和2年(2020)にかけて京橋一丁目遺跡の発掘調査が行われ、狩野家の屋敷跡が発見されました。
屋敷には池があり、その中からは多くの絵の具を溶かす用途とみられる皿(パレット)が出土しました。小皿の中には、赤や黒、緑色の顔料などがわずかに残っていたものも見つかり、実際にこの地で絵が描かれていたことがわかりました。
江戸時代の絵師の屋敷跡が発掘調査されたのは区内でははじめてのことで、全国的にも珍しい事例です。
協力:中央区教育委員会
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発掘調査や狩野四家については、こちらの特派員ブログをご覧ください。
【遠足シリーズ第37弾】史跡・遺跡・城跡が語る狩野家とは (by Hanesさん)
江戸狩野派と中央区 狩野画塾跡 (by 銀造さん)
婦人薬「實母散」発祥の地の石碑
江戸時代から続く婦人薬「實母散(じつぼさん)」を販売する喜谷(きたに)市郎右衛門本舗がこの地にあったことを記す石碑です。この石碑の建立は平成25年(2013)と記されていますので、ビルの開業に合わせて、この場所に移設されたのでしょうか?
「文化歴史の道」の案内板によると「實母散」の店舗はTODA BUILDINGの通りを挟んだ向かい側、現在の全国信用組合会館がある一角にありました。
「實母散」と喜谷市郎右衛門本舗については、調べてみると面白い歴史がありますので、また別の機会にブログに書きたいと思います。
「京橋一丁目町会の御神輿」の展示
豪華な「京橋一丁目町会の御神輿」が新たに展示されました。昭和26年に行徳関ヶ島の御輿師・後藤直光氏が制作した神輿で、制作から70年たった令和4年(2022)に大改修を行っており、美しく蘇りました。台輪の四方には四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)の彫刻、屋根には鳳凰が取り付けられています。
【御神輿の説明です】====================================
京橋一丁目町会の御神輿
この御神輿は戦後の昭和二十六年に町内の活気を取り戻そうと、京橋一丁目東町会と西町会がひとつとなり、行徳関ヶ島の御輿師である後藤直光氏制作してもらったものです。
制作から70年たった令和四年、行徳の中台製作所にて大改修を行っていただきました。台輪(担ぎ棒が通っている土台部分)は二尺三寸ですが、厚みのある木、鋳物製の鳳凰などにより、見た目より重量のある神輿になっています。
この神輿の特徴は、こんもりとした屋根に延屋根の反りなどバランスのとれた美しさにあります。また側面の彫刻は、技工をより際立たせるためあえて色を付けない「白木」であり、裏側も彫ることで遠近感を出している「厚み(立体感)」が大きな特徴です。また、台輪の四方に施された四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)の彫刻や、鳳凰の表情にも注目してもらえればと思います。
京橋一丁目町会
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TODA BUILDINGの裏にある「文化歴史の道」を是非訪れてみてください。
TODA BUILDING 〒104-0031 東京都中央区京橋1丁目7−1
文化歴史の道:マップ