江戸狩野派と中央区 狩野画塾跡
板橋区美術館が 2020年7月から8月にかけて開催した「狩野派学習帳」を改めて読んでいます。
その説明によれば、
狩野派は、室町時代後期の狩野正信(1434~1530)から始まります。
正信は、中国絵師の作風(筆様)を習得し、足利幕府の御用絵師に上り詰めました。 正信の長男・元信(1477?~1559)は、絵師集団として狩野派を組織し、元信の孫、永徳(1543~90)による大画面の金碧障壁画は、織田信長や豊臣秀吉などの戦国武将を魅了しました。
江戸幕府の成立により、徳川家に仕えるため狩野派も京都から江戸へ本拠を移しました。
江戸狩野派とは、16歳で御用絵師に任命された探幽(1602~74)以降、江戸で活躍した狩野家一派の事です。
探幽は、画面の枠や余白を意識した構図に、詩情豊かで軽妙な筆致で描き、秩序と平穏が訪れた新時代に相応しい様式を生み出しました。(ここまでの説明は、板橋区立美術館が2020年7月から8月にかけて開催した「狩野派学習帳」の説明を参考にさせて頂きました)
※この「狩野画塾跡」の説明碑は、新装開店された ”ホテル グランバッハ東京銀座 Hotel Grand Bach” のグラスウオールに設置されています。 きっと、ホテル側が協力してくれたのでしょう。
江戸狩野四家 木挽町の狩野画塾跡 中橋狩野家
江戸狩野四家は、鍛冶橋家の探幽、木挽町家の尚信、中橋家の安信、浜町の岑信と言われています。
狩野探幽の屋敷は、現在の八重洲二丁目(鍛冶橋交差点付近)、木挽町家の尚信の屋敷は、「狩野画塾跡」として説明板が設置されています。(添付写真の通り)。 木挽町の分家の浜町の岑信の屋敷は所在不明。そして、宗家の中橋家に関する説明板は設置されておらず、わずかに「歌川広重広重住居跡」の説明為のパネルに、『住居は、幕府の奥絵師(御用絵師)狩野四家のうち、中橋狩野家屋敷の隣にあり、二階建ての独立家屋であったといいます。』との説明の中に記されています。
添付、「狩野画塾跡」の説明では、
江戸幕府の奥絵師であった狩野四家は、いずれも狩野探幽、尚信、安信の三兄弟を祖とし、「鍛冶橋」、「木挽町」、「中橋」と「浜町(木挽町の分家)」の四家すべての拝領屋敷が区内にありました。 木挽町狩野家の祖・狩野尚信は寛永七年(1630)に江戸に召しだされ、竹川町(現在の銀座七丁目)に屋敷を拝領して奥絵師になりました。その後、六代典信(合は栄川、栄川院ほか)の時に老中・田沼意次の知遇を得て、木挽町の田沼邸西南角にあたる当地に移って画塾を開きました。 奥絵師である狩野四家の中で、もっとも繁栄した木挽町狩野家は諸大名などからの制作画の依頼も億、門人が数多く集まりました。門人のほとんどは、諸侯のお抱え絵師の子弟で、十四から十五歳で入門し、十年以上の修行を要しました。 修行後は師の名前から一字を与えられて、絵師として一家を成す資格を持つといわれました。 この狩野画塾からは、多くの絵師が輩出されていますが、明治の近代日本画壇に大きく貢献した狩野芳崖や橋本雅邦などは、ともに木挽町狩野家十代・雅信の門下生です。
令和三年七月 中央区教育委員会
(ご参考)名前の読み方を追記します。典信(みちのぶ)、雅信(ただのぶ)
池上本門寺 狩野家墓所
狩野家のお墓は日蓮宗の大本山・池上本門寺にあります。
お墓の場所は五重塔の近くに一つ、全部で四つぐらい点在しているみたいです。
多宝塔の右側に狩野孝信、左側に狩野探幽のお墓があると境内案内地図に表示されています。 お墓の写真の掲載は自粛します。 ソメイヨシノの咲き誇る時に、お参りしてきました。 合掌
(注)日蓮宗の総本山が身延山久遠寺です。身延山のHPによれば、日蓮宗の大本山は、池上本門寺の他に、誕生寺(千葉)、清澄寺(千葉)、中山法華経寺(千葉)、北山本門寺(静岡)、妙顕寺(京都)、本圀寺(京都)です。