Hanes

【遠足シリーズ第37弾】史跡・遺跡・城跡が語る狩野家とは


こんにちは。アクティブ特派員のHanes(ハネス)です。
先月、先輩特派員の銀造さんが「ホテルグランバッハ東京銀座 バッハと狩野派がお出迎え」でご紹介していたように、昨年、狩野画塾跡にホテルがオープンする等、その一帯に変化がありました。
狩野画塾跡の案内板が新しくなったほか、木挽町狩野派7代目当主 狩野惟信(ただのぶ)による「四季花鳥図屏風」(板橋区立美術館蔵)の一部が展示されています。

遡ること江戸時代。狩野四家は、鍛冶橋、木挽町、中橋、浜町(いずれも現・中央区内)に屋敷を拝領していました。
その中で最も繫栄したのが木挽町狩野家
案内板によると、木挽町狩野家の祖・狩野尚信は寛永7年(1630年)に江戸に召し出され、竹川町(現・銀座7丁目)に屋敷を拝領し、奥絵師になったそうです。
6代狩野典信(みちのぶ)の時代には、老中田沼意次の知遇を得、田沼邸西南角にあたるこの場所に開塾しています。

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狩野派を確立し、江戸の奥絵師として名を馳せた狩野家。
その雅な絵画を一度目にしたら忘れることはないでしょう。

しかし、誰しも得意分野と不得意分野があるように、美術や芸術に造詣の深くない私。
狩野派や江戸狩野四家と聞いても中央区観光検定対策として最低限の知識を頭に入れておくにとどまり、それ以上の興味を持てずにいたのが正直なところです。

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しかし、絵画という切り口ではなく、遺跡・遺構といった角度からのアプローチともなると、同じ狩野家でも一気に興味がわくので不思議!
初めて中央区観光検定の受験申し込みをした2017年10月(特派員になる前)、雨の中開催された京橋一丁目遺跡見学会に参加しました。

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京橋一丁目は、江戸時代において主に中橋一丁目(江戸時代前期の段階で南伝馬町一丁目となる)や大鋸町(おがちょう)と呼ばれた町人地でした。
大鋸町の一部は幕府奥絵師である江戸狩野四家の宗家「中橋狩野家」の屋敷があった場所であり、この遺跡のある場所には、その狩野家の拝領する屋敷地があった可能性が高いのだとか。
(※大部分が町人に貸し出されていた可能性もあるそうです。)

まだ詳しいことは分かっていないようですが、狩野家の人たちがどのような生活をしていたのか俄然興味がわいてきました。

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そして、少し前に静岡県伊豆市を訪れた際、偶然にも「室町~江戸時代日本の画壇の本流 狩野派発祥の地 狩野城跡」と書かれた看板を発見!
現地での滞在時間が限られていたこともあり、車で一旦通り過ぎるも、Uターンして城跡を散策してきたのは中央区観光協会特派員としての性でしょうか。

 【遠足シリーズ第37弾】史跡・遺跡・城跡が語る狩野家とは


駐車場のそばには、こちらの案内板がありました。
どうやら絵師として栄えた狩野派の祖先は、源頼朝に従って石橋山の合戦に参戦したり、後北条氏の重臣として要職を歴任したりしていたようです。
恥ずかしながらこれまで狩野家の祖先については知らず、てっきり最初から絵師の家系だと思っていましたが、そうではなかったことを知り驚きました!

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さらにこちらの系譜では、江戸狩野四家に言及されているほか、円山応挙といった門人も示されているので勉強になります。

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これまでなんとなく理解していた狩野家の全貌が、これを機に徐々に見えてきました。
スケジュールの都合上、城跡をじっくり散策することはかないませんでしたが、伊豆の地にて、思いがけなく江戸狩野四家のルーツを知ることができ、有意義な遠足となりました。

 【遠足シリーズ第37弾】史跡・遺跡・城跡が語る狩野家とは


これを機に狩野派や江戸狩野四家への関心が高まったため、今後はもう一歩踏み込んでそれらの歴史や中央区との関係を学んでいけたらと思います。

ご紹介スポット情報

狩野画塾跡
住所:東京都中央区銀座5-13-12
※ホテルグランバッハ東京銀座の南側に、新たに設置された狩野画塾跡の案内板と「四季花鳥図屏風」(一部)があります。