日光街道、日本橋から千住までを歩く!
ゴールデンウィークにまち歩きメンバーと日本橋から千住まで日光街道(※)を歩いてきました。
今回のブログはその道中、中央区内(浅草橋まで)のコース、立ち寄った主なスポットをご紹介したいと思います(最後にマップを付けましたので、随時ご参照ください)。
※ 本ブログで使用する「日光街道」という言葉は、現在、国道4号(宇都宮市以南)などの通称となっている日光街道ではなく、国道4号と並行ルートで進む旧道(旧日光街道)をいいます。
「日光街道」について
「日光街道」は江戸時代、徳川幕府によって整備された五街道(※)の一つで、寛永13年(1636)頃に完成した、江戸日本橋を起点に日光東照宮までの約140㎞を結ぶ街道(参詣道)です。
当初は「日光海道」と呼ばれていましたが、新井白石(明暦3年(1657)~享保10年(1725)、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者)の「海端の道ではない」との意見により「日光道中」となり、明治維新後の新政府によって「日光街道」と改名されました。
「駅肝録(えきかんろく)」(江戸時代に記録された五街道の宿駅に関する記録)によると、正徳6年(1716)の街道呼称整備で中仙道が中山道となり、奥州・日光・甲州の三道が道中となっています。
東海道は東の海端を通るためであり、中山道は中央の山路を通るから仙を山へと改め、他の三道は海端も山地も通らないことから道中となったのです(以下参照)。
> 東海道 → 海端を通り候付、海道と可申候
> 中山道 → 只今迄は仙之字書候得ども、向後山之字書可申事
> 奥州道中 → 是は海端を通り不申候間、海道とは申間敷候
> 日光道中 → 右同断
> 甲州道中 → 日光道中右同断
※ 五街道については、国土交通省の資料「五街道と主な脇往還」が参考になります!
出発は五街道の起点「日本橋」です!
出発は日光街道を含めた五街道の起点となっていた日本橋です。
そして、もちろん、集合場所は日本橋北詰西側にある「元標の広場」(日本橋室町一丁目1)です。なぜなら、そこには主要な国道(※)の起点を示す「日本国道路元標」のレプリカが設置されているからです(上の写真左)。ちなみに本物は日本橋の中央部、車道の真ん中に埋め込まれています(上の写真右)。また、その文字は当時の内閣総理大臣であった佐藤栄作氏の揮毫(きごう)によるものです。
メンバー二人がそろったので、日本橋スポットを一通り見て、午前9時前に「元標の広場」を出発しました。
「元標の広場」から中央通りを北に向かって歩くと、すぐに日本橋三越本店です。
その三越本館室町口に隣接する、東京メトロ「三越前」駅・A3出入口から階段を下りて向かったのは、最初のスポット「熈代勝覧(きだいしょうらん)」です。
※ 国道1号(大阪まで)、国道4号(青森まで)、国道6号(仙台まで)、国道14号(千葉まで)、国道15号(横浜まで)、国道17号(新潟まで)、国道20号(塩尻まで)
東京メトロ「三越前」駅 地下コンコースに常設展示、「熈代勝覧」の大絵巻!
「熈代勝覧」(日本橋室町一丁目4)は、東京メトロ「三越前」駅・A3出入口から階段を下りて、すぐ左にあります。
「熈代勝覧」とは「熈(かがや)ける御代(みよ)の勝(すぐ)れたる大江戸の景観を一覧する」という意味で、文化2年(1805)頃の日本橋から神田今川橋までの大通り(現在の中央通り)を東側から俯瞰し、江戸時代の町人文化を克明に描いた貴重な絵巻物(作者不明)です。原画はドイツのベルリン国立アジア美術館に所蔵され、こちらは複製絵巻となります。
まち歩きでは、地下はあまり立ち寄ることはないので、最初のサプライズとして今日のコースに入れておきました。お二人とも初めてご覧になったようでした。
再び地上へ、徳川家康も参詣した福徳神社(芽吹稲荷)
「熈代勝覧」を鑑賞した後、地下コンコースをさらに北に向かって歩くと、前方右側に日本橋案内所(日本橋室町二丁目2-1 コレド室町1 地下1階)が見えてきます。時間は9時過ぎなので、まだ営業していません。残念な気持ちを抑えつつ、コレド室町2へ移動、エスカレーターで1階へ上がり、反対方向に(時計回りにぐるりと270度回転するイメージで)歩き、北側の出口を出れば、目の前が次のスポット、福徳神社(日本橋室町二丁目4-14)です。
福徳神社は、同社ホームページによると、貞観年間(859~877年)よりこの地に鎮座していたといわれ、この地が古くは武蔵国豊島郡福徳村(あるいは同国同郡野口村福徳)であったことから、その地名にちなんで「福徳稲荷」と呼ぶようになったそうです。
武将からの崇拝も篤く、徳川家康は天正18年(1590)に参詣、二代将軍秀忠も慶長19年(1614)に参詣し、「福徳とはめでたい神号だ」と称賛、当時の椚(くぬぎ)の皮付き鳥居(黒木鳥居)から春の若芽が生えているのを見て、別名「芽吹稲荷(めぶきいなり)」と名付けたといわれています。
現在の社殿は、平成18年(2006)の日本橋室町再開発に伴う4度目の遷座で、平成26年(2014)に竣工したものです。
ご祭神は五穀豊穣の神、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、商売繫盛・家内安全に加え、金運アップ・宝くじ当選などのご利益があるといわれています。
医薬の祖神をお祀りする薬祖神社(やくそじんじゃ)
薬祖神社(日本橋室町二丁目5-8)は福徳神社のお隣、都会のオアシス「福徳の森」(日本橋室町二丁目5-10)に鎮座する神社です。
公益社団法人 東京薬事協会(日本橋本町三丁目4-18)のホームページによると、明治41年(1908)より同協会の前身、東京薬種貿易商同業組合が、上野の五條天神社(台東区上野公園4-17)から薬祖神の御霊を迎えて大祭を執り行うようになり、昭和4年(1929)に事務所建物の屋上に薬祖神社(初代社殿)を造営したのが始まりだそうです。
そして、その後、また別のビルの屋上に移り、平成28年(2016)に「福徳の森」の整備に併せて現在の場所に遷座となりました。
ご祭神は医薬の祖神、大己貴命(おおなむじのみこと)と小彦名命(すくなひこなのみこと)の2柱で、無病健康と病気平癒のご利益があるといわれています。
薬祖神社に隣接する日本橋本町は、徳川家康が天正18年(
慶長8年(1603)に幕府が開かれると、全国の商工業者が次々
薬祖神社は「くすりの街」日本橋本町のシンボルとして、今もなお、界隈の医薬品関連企業で働く人々の崇拝を集めています。実際、薬祖神社を後にして、次のスポットへ向かうとき、多くの製薬メーカーの本社や支社がありました。
べったら市で有名な宝田恵比寿神社(たからだえびすじんじゃ)
次に向かったスポットは、宝田恵比寿神社(日本橋本町三丁目10-11)です。
同社は元々江戸城外にあった宝田村の鎮守社でしたが、江戸城拡張に伴い、慶長11年(1606)にこの地に移転してきました。
祭壇の中央に安置されている恵比寿神は、その移転の際に、徳川家康の家臣であった馬込勘解由(まごめかげゆ)が家康から授かったもので、鎌倉時代の仏師・運慶(久安6年(1150)頃~貞応2年(1223))作ともいわれています。
毎年10月19・20日には商売繫盛を祈る恵比寿講が開かれ、門前にはべったら市が立って賑わいます。
「旧日光街道本通り」碑で、当時の賑わいをしばし想像 …
宝田恵比寿神社のあるえびす通りから大伝馬本町通りに入る左角に「旧日光街道本通り」碑(日本橋大伝馬町2-1)があります。
この碑には以下の内容が刻まれていす。
> 北面(正面)→ 旧日光街道本通り
> 東面(左側)→ 江戸名所図絵や広重の錦絵に画かれて著名なこの地は将軍御成道として繁華な本街道であり木綿問屋が軒を連ねて殷賑を極めた
> 西面(右側)→ 徳川家康公江戸開府に際し御傳馬役支配であった馬込勘解由が名主としてこの地に住し以後大傳馬町と称された
> 南面(裏側)→ 昭和五十八年 大伝馬町会
この碑を見て、当時の賑わいをしばし想像しました。
“べらぼう” でおなじみ! 蔦重「耕書堂」跡
「旧日光街道本通り」碑から、大伝馬本町通りを(途中、人形町通りと大門通りを渡って)400mほど歩くと、大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」でおなじみの蔦重「耕書堂」跡(日本橋大伝馬町13-8)があります。
蔦重こと蔦屋重三郎(寛延3年(1750)~寛政9年(1797))は、安永2年(1773)、江戸の遊郭、吉原・大門口、五十間道の引手茶屋に間借りをして「耕書堂」を開き、安永6年(1777)には、その「耕書堂」をすぐ近くに独立させ、新たな店舗を設けました。
そして、天明3年(1783)に吉原から通油町(日本橋大伝馬町付近)に進出したのです。
詳細は2024年11月のブログをご覧ください。
磯部稲荷神社 ~ こんなところに神社が ~
蔦重「耕書堂」跡から約200m、大伝馬本町通りから続く横山町大通りを歩いていると、右側のビルの敷地内に鳥居のようなものを見つけました。入口から写真を撮らせていただき、拡大して見てみると、「磯部稲荷神社」と書かれた扁額があり、やはりこれは鳥居だということがわかりました。
それにしても素敵なビルにスタイリッシュな鳥居! 高尾稲荷神社(日本橋箱崎町10-7)(⇒2023年6月のブログご参照)とちょっと似ているなあと思いました。
調べてみると、こちらは、磯部稲荷神社(日本橋横山町4-8)という神社のようです。詳しい由緒はわかりませんが、思うに、この辺りは江戸時代から木綿問屋などの商人や職人が集まっていた土地なので、地域の商業活動や住民の日常生活との関わりから、商売繫盛や家内安全を願う地元の人々によって長年崇拝されてきたのではないかと推測します。
この神社はガイドブックに載っておらず、注意をしていないと、通り過ぎてしまいそうですが、このような新たな発見があるのもまち歩きの楽しみの一つです。
中央区内の終点は浅草橋です!
磯部稲荷神社から引き続き300mほど横山町大通りを歩くと、清杉通りに合流します。そしてすぐに靖国通り(東側で京葉道路に接続)と交差する浅草橋交差点(東側)を左折し、またすぐに江戸通りと交差する浅草橋交差点(西側)を右折すると、浅草橋はすぐそこです。
しかし、橋を渡る前に、メンバーの皆さんにぜひ見てもらいたいと思っていたスポット、浅草橋の南詰西側、2024年6月のブログでご紹介した、開智日本橋学園さん(日本橋馬喰町二丁目7-6)の石垣石(伊豆石)をご案内しました。
これは、学園が日本橋女学館時代の平成20年(2008年)、校舎建て替え時に実施された発掘調査によって出現したものです。実際に発掘調査をされた当時の生徒さんからお話をお聞きできたのはとても有難いことでした。
そして、中央区内の終点、浅草橋に着いたのは午前10時前、1時間ほどの「日光街道まち歩き(中央区編)」でした。
今回のコースを中央区観光協会のエリアマップで復習すると…
まずは、日本橋エリア(日本橋「元標の広場」~「旧日光街道本通り」碑)です。
次に人形町エリア(宝田恵比寿神社~浅草橋)です。
おわりに
浅草橋からはガイドを交代、昨年、奥州街道・白河(福島県白河市)から日本橋まで(宇都宮から日本橋までは日光街道と共用)を歩いたという、まち歩きベテランのSさんにお願いをし、日光街道最初の宿場だった千住に着いたのは午後1時半でした。
途中、須賀神社、鳥越神社、待乳山聖天、泪橋、小塚原刑場跡、回向院、素盞雄神社などに立ち寄り、全行程4時間半、約15㎞、およそ2万歩の「日光街道まち歩き(日本橋~千住編)」となりました。
心地よい汗をかいた後は、やはりビールでのどを潤し、鰻料理をつまみながら日本酒を堪能、本日の反省会をしたのでありました。
【主な参考文献】
・ちゃんと歩ける日光街道 奥州街道(2018年3月/八木牧夫著/山と渓谷社)
・江戸のくらしと新宿/五街道(新宿歴史博物館 常設展示解説シート⑬)
・「熈代勝覧」パンフレット(現地パンフレット)
・歩いてわかる中央区ものしり百科(2024年10月/JTBコミュニケーションデザイン)
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