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日本橋の地でもうすぐ120年!
歴史と文化を継承しながら国際性を目指す「開智日本橋学園」とその地下に眠る「柳原土手跡遺跡」について

神田川に架かる浅草橋から望む開智日本橋学園さん。中央区の最北部に位置し、浅草橋を渡れば台東区となります。

 

はじめに

前回のブログ(江戸の城と町を築いた伊豆石 ~伊豆石のふるさとを訪ねました~)作成にあたっては、開智日本橋学園さんの石垣石をご縁に同校の歴史と文化について、広報担当の方を通じ、貴重なお話をおうかがいすることができました。その内容は、江戸時代から歴史と文化の中心であった日本橋という土壌の上に(まさに江戸時代の遺跡の上に)、一世紀を超える長きにわたり、さまざまな苦難を乗り越え、教育を施してきた学園の伝統そのものでした。

そこで、今回のブログは、前回ご紹介しきれなかった貴重なお話をもとに、改めて江戸時代の遺跡の上に校舎を構える「開智日本橋学園」さんをご紹介するとともに、その「柳原土手跡遺跡」についても、もう少し深掘りしてみたいと思います。

【構成】

はじめに
1.開智日本橋学園中学・高等学校について
 (1)学園の歴史と文化
 (2)学園が目指す国際性
2.柳原土手跡遺跡について
 (1)柳原土手跡遺跡とは
 (2)生徒たちの発掘体験
おわりに

1.開智日本橋学園中学・高等学校について

 それでは、前回のブログをきっかけに、開智日本橋学園中学・高等学校の貴重なお話をしていただいた、副校長の藤井由紀子様から、改めて同校の歴史と文化、そして国際性をご紹介いただきたいと思います。

 日本橋の地でもうすぐ120年!
歴史と文化を継承しながら国際性を目指す「開智日本橋学園」とその地下に眠る「柳原土手跡遺跡」について

左)開智日本橋学園さんの校舎(地上8階地下1階)。手前は久松警察署・東日本橋交番です。

右)交番のすぐ横にある「郡代屋敷跡」の説明板。江戸時代、この場所には年貢徴収や治水・領民紛争の処理などを管理した「関東郡代」という役人の屋敷がありました。

 

(1)学園の歴史と文化について教えてください

<設立経緯>

 本校は、明治のころ盛んに各地で結成された「教育会」の一つであった「日本橋区教育会」と当時の日本橋区によって、1904年に日本橋女学校として設立され、1905年に日本橋蛎殻町で開校しました。

 建学の精神は「質実穏健」で、日本橋の老舗の皆さまの女子教育を担う学校として設立されています。

 そして、1906年には私立日本橋高等女学校の認可を受け、1908年に当地(日本橋馬喰町2丁目)に移転、1915年に財団法人日本橋女学館となりました。戦後は日本橋女学館中学・高等学校として、長い間中央区唯一の私立の女子校で、近隣には卒業生がたくさんいます。

 しかし、本校も少子化の波をかぶることになり、2014年に埼玉県(さいたま市岩槻区)に本拠地のある学校法人開智学園と提携し、翌2015年に開智日本橋学園中学校、2018年には開智日本橋学園高等学校として共学化がスタートして現在に至っています。

<日本橋の老舗の皆さまが学校を支えてきました>

 日本橋女学館は、日本橋の老舗の皆さまの女子教育のために設立された学校と申しましたが、学校の運営母体となる理事会メンバーはその老舗の皆さまが中心となり、学校を支えてきました。

 中央区役所に「中央区名誉区民」の皆さまのお写真が飾られていますが、そのうち、故山本惠造氏(株式会社山本海苔店)、故宮入正則氏(株式会社宮入)、故細田安兵衛氏(株式会社榮太樓總本鋪)が本校の理事長を務められ、故三田政吉氏(株式会社明治座)が副理事長を務められていました。ちなみに故山本惠造氏は、現中央区長・山本泰人氏のお父様で、泰人氏は現在、理事を務めていらっしゃいます。

 なお、日本橋区と京橋区が合併して中央区が誕生するまで、日本橋区長が本校の理事長を兼務していた時代もありました。

<開智日本橋学園の気風について>

 私は、日本橋女学館で9年、開智中学・高等学校一貫部で6年、開智日本橋学園で3年と3か月の間、管理職として勤務してきましたが、開智日本橋学園には、日本橋女学館由来の古い文化を継承しようとする精神を根底に置きながら、新しいものや異文化を取り入れ、新しい文化を作っていこうとする気風があるように思います。

<最近の生徒動向>

 かつて日本橋近隣の子女のみを受け入れるとしてきた日本橋女学館は、関東大震災における廃校の危機を乗り越え、1924年に再開したときに全国に門戸を開く学校になりました。

 共学校の開智日本橋学園となった今は、世界に門戸を開く学校になっていますが、最近では中央区の人口が増えるにつれ、年々区内からの志願者・入学者が増加し、ついに2024年度入試の中学合格者は中央区在住者が最も多くなりました。中央区の年少人口の増加とともに、世界を舞台にして働く方がいらっしゃるご家庭が区内に増えているのかもしれません。本来の姿に戻りつつあるようで、これも嬉しい限りです。

【沿革】

・明治37年(1904年) 日本橋女学校設立認可
・明治38年(1905年) 日本橋蛎殻町第一幼稚園校舎の一部を借用し開校
・明治39年(1906年) 私立日本橋高等女学校認可
・明治41年(1908年) 生徒増加により柳原河岸三号地の元千代田小学校校舎に移転
・明治44年(1911年) 天皇・皇后両陛下のご真影下賜
・大正4年  (1915年) 財団法人日本橋女学館設立
・大正12年(1923年) 関東大震災のため校舎烏有に帰し、学校も一時解散
・大正13年(1924年) 授業再開
・昭和6年  (1931年) 日本橋女学館定款変更、日本橋区長が本校理事長兼務となる
・昭和22年(1947年) 日本橋区と京橋区が合併して中央区が誕生。以後、本校と区会が事実上分離
・昭和26年(1951年) 学校法人日本橋女学館発足
・昭和40年(1965年) 秩父宮妃ご来臨
・平成元年(1989年) 山本惠造氏理事長就任
・平成17年(2005年) 明治座において創立100周年記念式典挙行
・平成18年(2006年) 宮入正則氏理事長就任
・平成19年(2007年) 細田安兵衛氏理事長就任
・平成19年(2007年) 中高、新校舎建設のため、仮校舎にて授業開始
・平成21年(2009年) 地下1階、地上8階の新校舎完成、落成記念式典挙行
・平成26年(2014年) 学校法人開智学園と提携、開智・日本橋教育グループを結成
・平成27年(2015年) 日本橋女学館中学校を開智日本橋学園中学校と校名変更、共学化
・平成29年(2017年) 学校法人開智学園と合併(存続法人は開智学園)
・平成30年(2018年) 日本橋女学館高等学校を開智日本橋学園高等学校と校名変更、共学化

 

 日本橋の地でもうすぐ120年!
歴史と文化を継承しながら国際性を目指す「開智日本橋学園」とその地下に眠る「柳原土手跡遺跡」について

京橋図書館撮影「浅草橋から日本橋女学館を」昭和33年(1958年)製作(提供:京橋図書館)

 

 日本橋の地でもうすぐ120年!
歴史と文化を継承しながら国際性を目指す「開智日本橋学園」とその地下に眠る「柳原土手跡遺跡」について

京橋図書館撮影「日本橋女学館を浅草橋からみる」平成9年(1997年)製作(提供:京橋図書館)

 

(2)学園が目指す国際性について教えてください

 開智学園という名前は、名誉学園長でノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智(おおむらさとし)先生が命名し、世界で活躍できるグローバルな人材を育てるために「探究」を教育の柱としてきました。

 その探究を教育の手法として取り入れたものが「国際バカロレア」(以下「IB」)(※)で、東京23区内の私立学校で唯一、中高6年間IB教育を行っている学校(ミドルイヤーズプログラム、ディプロマプログラム認定校)です。

 校内の教職員の30%は、英語ネイティブまたはバイリンガルかトリリンガルで、教室でも職員室でも英語が飛び交う環境です。また、2023年度の最終的な数字はまだ出ていませんが、2022年度の卒業生140名のうち、海外の大学42校に合格しています。

 このように、本校は日本橋の歴史や文化あるいは経済の特性を意識し、日本橋の中で役立つ学校であることを強調しながら、グローバル化する国際社会で活躍できる人材の育成に努めています。

(※)「国際バカロレア」とは、国際バカロレア機構が提供する国際的な教育プログラムのことです。詳細は 文部科学省ホームページ をご覧ください。

 

【開智日本橋学園中学・高等学校】

 〒103-0002 東京都中央区日本橋馬喰町2−7−6

 TEL:03-3662-2507 FAX:03-3662-2506
 ホームページ:https://www.kng.ed.jp/

 

 日本橋の地でもうすぐ120年!
歴史と文化を継承しながら国際性を目指す「開智日本橋学園」とその地下に眠る「柳原土手跡遺跡」について

開智日本橋学園さんは神田川の南岸、柳原通りに沿って建っています(日本橋馬喰町1丁目4番にある中央区エリアマップより)。

 

 日本橋の地でもうすぐ120年!
歴史と文化を継承しながら国際性を目指す「開智日本橋学園」とその地下に眠る「柳原土手跡遺跡」について

開校の地、日本橋蛎殻町2丁目14番。水天宮のすぐ近くです(日本橋蛎殻町2丁目4番にある中央区エリアマップ(上が東)より)。

2.柳原土手跡遺跡について

(1)柳原土手跡遺跡とは

 柳原土手跡遺跡は、開智日本橋学園さんが日本橋女学館時代の平成20年(2008年)、校舎建て替え時に実施された緊急発掘調査により出現したものです。もともと同校の隣接地は、埋蔵文化財包蔵地(中央区No.25,29遺跡)として指定を受けていたことから、まず最初に平成19年(2007年)12月から平成20年(2008年)1月に事前の試掘調査が行われ、その後、正式に平成20年(2008年)3月から同年5月に本調査が実施され、中央区No.68遺跡として包蔵地登録がされました。

 この「柳原土手」は、元和2年(1616年)に江戸城の外堀の機能も持つ神田川が開削された後、元和6年(1620年)に築かれています。そして、その後、江戸城外堀普請により、寛永13年(1636年)に松平越前家によって浅草橋門が築造されます。その様子は、延宝7年(1679年)の「江戸方角安見図鑑」(後掲)にも描かれ、浅草橋門の枡形から神田川沿いに西に延びる城壁(石垣)、さらには「柳ハら土手」と書かれた土手があるのがわかります。

 このように、本遺跡地は、江戸城三十六見附の一つの浅草見附(浅草橋門を伴った江戸幕府の軍事施設)に隣接する場所であったことから、江戸城防衛面において重要な場所だったといえます。

 今回の発掘調査により、当地は、ほぼ江戸時代を通じて、石垣を伴う土手跡とそこに付帯していた町屋(町に建つ商家および職人の住まい)であった可能性が高いことがわかりました。そして、明治時代となり、明治17年(1884年)までには千代田小学校が建てられ、明治41年(1908年)に日本橋高等女学校が移転、日本橋女学館中学・高等学校を経て、現在、開智日本橋学園さんの用地となっています。発掘調査では、多くの出土品が埋め戻されているので、学園の地下には今も「柳原土手跡遺跡」が眠っていることになります。

 

 日本橋の地でもうすぐ120年!
歴史と文化を継承しながら国際性を目指す「開智日本橋学園」とその地下に眠る「柳原土手跡遺跡」について

左の赤丸部分が柳原土手跡遺跡の場所です。浅草橋門の枡形から神田川沿いに右(西)へ城壁(石垣)が延び、櫓のようなものも見られます。さらに右(西)には城壁(石垣)に続いて土手が築かれ、赤丸部分に「柳ハら土手」と書かれているのがわかります。

また、柳原土手跡遺跡の上(南西)には「伊奈半十郎」と書かれた屋敷があり、こちらは後に伊奈家が世襲する「関東郡代」の屋敷(郡代屋敷)となります。

この地図は、京橋図書館の許可を得て、「中央区沿革図集[日本橋篇]」(東京都中央区立京橋図書館、平成7年3月31日発行)から転載した「延宝7年『江戸方角安見図鑑』」より作成したものです。当時の地図(江戸図)は、江戸城のある方角が上になって描かれているのが一般的で、この地図は上が南西になっています。

 

 開智日本橋学園さんの校舎の前には、遺跡から出土した石垣石が展示され、その説明板には次のような説明がありました。

>この石が出土した場所は、ここから西へ約 5、60m行ったところになります。そこは、江戸時代を通じて神田川に沿った柳原土手という土手でした。神田川は江戸城の防御のための堀の役割も果し、浅草橋の南側には、江戸城の最も北東にある浅草橋御門と呼ばれる城門があり、この一帯は江戸城内でも重要な位置にあたります。
 この石は、平成19年12月から平成20年5月にかけて行なわれた発掘調査において、地下1mほどで発見されました。伊豆半島辺りから運ばれてきた安山岩質の石です。こうした石が6段前後、高さ3~4mに数十個積まれた状態で見つかりました。これは江戸城の防御を固める石垣です。土手の南側を補強する意味もあったのかもしれません。土手の形に沿って東西に長く築かれていました。
 今回の発掘調査で、はじめてここに石垣が築かれていたことがわかった新発見の資料で、まさにこの一帯が江戸城の一角を成していたことがわかる貴重な出土遺物です。

 

 日本橋の地でもうすぐ120年!
歴史と文化を継承しながら国際性を目指す「開智日本橋学園」とその地下に眠る「柳原土手跡遺跡」について

上)校舎の前に展示されている石垣石。

下)左側(南側)が柳原通りで、右側(北側)が校舎です。石垣石も写っています。

 

(2)生徒たちの発掘体験

 平成20年(2008年)5月24日、新校舎建築工事現場で発掘調査の実習が高3(5名)および中学2年(20名)の生徒たちで行われました。実習に参加した生徒たちは、江戸時代の生活用品や土めんこなどの出土に歓声をあげ、初めての貴重な発掘体験に興奮しつつも、一生懸命作業に没頭しました。まさにそれは、江戸時代から歴史と文化の中心であった日本橋の地で学ぶ生徒たちにとって、自分たちの学校のオリジンに触れた瞬間といえるのではないでしょうか。

 日本橋の地でもうすぐ120年!
歴史と文化を継承しながら国際性を目指す「開智日本橋学園」とその地下に眠る「柳原土手跡遺跡」について

発掘調査の実習の様子が紹介された「女学館だより」(2008年(平成20年)7月24日発行)。「女学館だより」の文字は、故山本惠造理事長(中央区・山本泰人区長のお父様)が書かれたものです(開智日本橋学園さんより提供)。

 

 今回特別に副校長の藤井由紀子様から発掘体験をした卒業生にご連絡を取っていただき、そのときの様子をお聞きすることができました。その卒業生は、当時中学2年生だった竹内(早坂)真歩様で、次のようなお話をしてくださいました。

>発掘調査のことですが、今でも鮮明に覚えております。
 もともと社会科が好きでしたので、とても楽しく参加させていただきました。日本橋、馬喰町ということもあり、江戸時代の人々が使っていた茶碗の破片など生活用品が出てきてこの地の歴史の重さを改めて感じました。何世代もの人々がこの日本橋の地で暮らし、文化を継承してきたということを強く実感しましたし、そういった歴史ある地に学び舎を持つことができる喜びを感じました。
 歴史は小学生の頃から好きでしたが、発掘調査の経験は確かに史学科に進学しようと思ったきっかけになりました。やはり、何世代もの人々が築いてきたものの上に私達がいるという実感が発掘調査で得られたからではないでしょうか。
 その後、成城大学の文芸学部文化史学科で民俗学を専攻しましたが、主な研究テーマは人々の暮らしに着目したものでありました。それも発掘調査での経験が生きていたのかもしれません。大学の史学科の先生方に中学生のときに発掘調査に参加したことがあると話すと、とても驚かれました。
 なかなかできない貴重な体験をさせていただき感謝申し上げます。

 

 日本橋の地でもうすぐ120年!
歴史と文化を継承しながら国際性を目指す「開智日本橋学園」とその地下に眠る「柳原土手跡遺跡」について

無心に発掘調査の実習を行う生徒たち(開智日本橋学園さんより提供)。

 

おわりに

今回のブログ作成にあたっては、副校長の藤井由紀子様に大変お世話になり、学園の色々なお話をおうかがいしました。その中で私が強く感じたのは、ご紹介いただいた「日本橋女学館創立 110周年記念誌」でインタビューを受けていらっしゃった山本泰人副理事長(110周年当時)のように、皆さまの「日本橋女学館」に対する熱い想いでした。それはまた、江戸時代から歴史と文化の中心であった「日本橋」をとても大切になさっているお姿でもあると思います。そして、その想いとお姿はインタビューの最後の「400年以上続き、今も受け継がれる日本橋の土壌の上に、さらに日本橋ブランドを発展させ、将来に羽ばたける人材の育成に努めていきたい」という力強いお言葉にまさに凝縮されていたと思います。

また、藤井様には、卒業生の竹内(早坂)様にもご連絡を取っていただき、中学時代の発掘調査の実習が人生に大きな影響を与えることになった素晴らしいお話をお聞きすることができました。

GWに伊豆に旅行に行き、伊豆石をテーマにブログを書くことになり、これまで知らなかった柳原土手跡遺跡を京橋図書館で教えていただきました。そして、実際に遺跡付近を探訪し、開智日本橋学園さんの石垣石と出会ったことによって、今回のブログを書くことができました。このご縁とつながりに本当に感謝です。ありがとうございました。

開智日本橋学園さんの教育の柱は「探究」ということですが、私もこうやって前回のブログから(遺跡探訪は元々好きな分野なので)、いつも以上に「探究心」を働かせて動き回ったことが、よい出会いをもたらしてくれたのかもしれません。

 

【主な参考資料】

①「特別寄稿 日本橋女学館設立について」開智国際大学教授 五藤寿樹

②「特別企画 山本泰人副理事長インタビュー」平成27年6月19日収録、インタビュー及び構成:五藤寿樹 開智国際大学教授、於:株式会社山本海苔店 応接室

③中央区教育委員会編「東京都中央区 柳原土手跡遺跡」学校法人日本橋女学館、中央区教育委員会、2013年

※上記①②の出典は「『日本橋女学館創立 110周年記念誌』櫻悠会(日本橋女学館同窓会)、2016年3月10日発行」となります。