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■中央区歴史逍遥<9> 徳川昭武と渋沢栄一 ~パリ万博に参加し、留学した~

 ■中央区歴史逍遥<9> 徳川昭武と渋沢栄一 ~パリ万博に参加し、留学した~

 日本資本主義の父と称される渋沢栄一((天保11年(1840)-昭和6年(1931))は、1867年開催の第2回パリ万博に徳川慶喜の名代となった弟・徳川昭武の随行員として参加した。その後、欧州の社会制度などを視察した。ちょうど明治維新と重なって帰国する。維新後、渋沢は実業界で活躍し、昭武は幕府崩壊後の水戸藩最後の藩主に就いた。

 パリ万博に参加した昭武は、その後松戸に隠居する。昭武が晩年を過ごした国指定重要文化財になっている水戸徳川家の邸宅「戸定(とじょう)邸」を訪ねた。【写真】常盤橋公園の渋沢栄一像とジョサイア・コンドル設計の渋沢邸

最後の将軍慶喜の弟、徳川昭武

最後の将軍慶喜の弟、徳川昭武 ■中央区歴史逍遥<9> 徳川昭武と渋沢栄一 ~パリ万博に参加し、留学した~

 徳川昭武(とくがわあきたけ=嘉永6年(1853)-明治43年(1910))は水戸藩9代藩主徳川斉昭の18男。慶応2年(1866)清水家を継ぐ。翌年徳川慶喜の名代としてパリ万国博覧会に赴く。引き続きフランスで留学生活を送るが、明治維新のため急遽帰国し、最後の11代水戸藩主となる。

 明治9年(1877)渡米、フランスへ再留学、明治14年(1882)帰国。明治16年(1884)家督を養子に譲り、松戸に隠居。以降長年にわたり明治天皇に奉仕(麝香間伺候という公職)する。(資料:国立国会図書館「近代日本人の肖像」から、写真も)

日本が初参加した、第2回パリ万国博覧会

日本が初参加した、第2回パリ万国博覧会 ■中央区歴史逍遥<9> 徳川昭武と渋沢栄一 ~パリ万博に参加し、留学した~

  1866(慶応2)年、フランス皇帝ナポレオン3世から幕府あてに、1867年にパリで開催する万博への要請と元首招請について書簡が届いた。幕府は将軍慶喜の弟、徳川昭武を名代として派遣することした。昭武は14歳、警護役として水戸藩氏7人が選出された。

 忠義心も強いが頑固な攘夷論者でもある彼らの取りまとめ役として随員(=御勘定格陸軍附調役(会計係兼書記))に加えられたのが、かって過激な尊王攘夷論者であった渋沢栄一である。算数に明るく、理財の念に富んでおり、その有能な実業家的手腕も期待された。

 渋沢は庶務及び会計に手腕を発揮した。万博の使命を果たす傍ら、1年半ほどのパリ滞在中に、経済の理法、株式組織の実際、金融銀行の仕組みなどを調査研究した。それらが後の近代的企業制度の改正改革につながっている。(資料:国立国会図書館「博覧会ー近代技術の展示場」から抜粋。会場全景写真も同じ)

 この万博は、日本が初めて参加したものであった。日本からは幕府だけでなく、薩摩藩と佐賀藩が独自に参加した。薩摩藩は五代友厚などを中心に、幕府に対抗する出品をして話題を呼んだ。佐賀藩の使節には佐野常民がいた。

昭武が晩年を過ごした「戸定邸」

昭武が晩年を過ごした「戸定邸」 ■中央区歴史逍遥<9> 徳川昭武と渋沢栄一 ~パリ万博に参加し、留学した~
 ■中央区歴史逍遥<9> 徳川昭武と渋沢栄一 ~パリ万博に参加し、留学した~

 「戸定邸」は松戸駅から徒歩10分ほどのところにある。明治期の徳川家の住まいが、ほぼ完全に残る唯一の建物。旧大名家の生活空間を伝える歴史的価値があり、国指定重要文化財になっている。

 昭武は明治15年(1882)住まいの建設を始めた。翌明治16年家督を譲り隠居となり、明治17年4月に「戸定邸」が完成した。装飾を廃し、高級杉建材を使って質実剛健の水戸徳川家の遺風を伝えているという。多数の部屋が重なる邸宅は旧大名家の生活様式を反映したもの。現在は9棟が廊下で結ばれ、23の部屋数がある。この邸宅には徳川慶喜や東宮時代の大正天皇などが訪れた。

 戸定邸が建つ前庭は国指定名勝の「旧徳川昭武庭園(戸定邸庭園)」で、起伏がある芝生地が広がり、周囲は樹木が植栽されている。眼下に江戸川、遥かに富士山を望める景観は明治期の庭園の特質を表しているという。

 隣接して「松戸市 戸定歴史館」(写真下右)がある。徳川昭武の遺品や慶喜家伝来品、パリ万博資料などが展示されている。これら建物を中心とした一帯は「戸定が丘歴史公園」で、かつては7万㎡を超えた敷地は、現在約3分の1が公園になっている。歴史館では「坂川・江戸川 水風景-昭武慶喜兄弟が撮った百年前の原風景ー」展が開かれていた。(資料:松戸市HPから)(@AM)

 【施設案内】松戸市 戸定歴史館HP >>こちら