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【遠足シリーズ第19弾】尾崎行雄、都市を江戸から東京へ


こんにちは。アクティブ特派員のHanes(ハネス)です。
最近、普段何気なく通る現在の名橋 日本橋が、1911年に架設され、既に100年以上が経過しているという事実に改めて驚かされました。
架設時には、既に江戸から明治へと時代が変わっていたにもかかわらず、その橋の銘板の揮毫は、江戸幕府最後の将軍 徳川慶喜によるものです。
では、なぜ彼が筆をとったのでしょうか?
実は、将軍のお膝元であった日本橋に江戸時代の面影を残すため、当時の東京市長 尾崎行雄が依頼したのです。

 【遠足シリーズ第19弾】尾崎行雄、都市を江戸から東京へ


今でもこうして日本橋に江戸の名残が見られることは大きく、その決断を下した尾崎元市長に拍手を送りたくなります。
そこで、現在の日本橋に江戸要素を残してくれた尾崎元市長はどのような人物で、現在の中央区とはどのような関係があるのかを知るために、日本橋を拠点とする甲州街道をたどり、現在は記念館となっている彼の生家へ行ってきました。

尾崎咢堂記念館

今回訪れた尾崎咢堂記念館は、「憲政の神」といわれた尾崎行雄(咢堂)を多くの人に知ってもらうため、生誕地である尾崎家代々の屋敷跡(相模原市緑区又野)に建てられました。
几号水準点を取り上げた際に、彼の像がある憲政記念館の敷地(千代田区)について少しだけふれています。)
その記念館は無料で見学できるようになっており、予想以上に中央区との接点を発見することができました。

 【遠足シリーズ第19弾】尾崎行雄、都市を江戸から東京へ


今回は興味深い彼の人生の中から、撮影許可をいただいた記念館所蔵の資料とともに東京市長時代および最期の時を簡単に取り上げます。

東京市長時代と最期の時

東京市議会にて満場一致で第二代の東京市長就任が可決されてから辞職までの9年間、彼の主な仕事は市区改正(市街地の整備)、東京築港(隅田川河口改良)、水道拡張(断水対策)、下水の改良(悪臭対策)、道路の拡張・舗装(塵埃・泥濘対策)、植樹(街路樹)、電車の市有化と瓦斯会社合併、東京市立日比谷図書館開館、ワシントンへの桜の寄贈等でした。

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まず市区制の改正問題と道路拡張についてもう少し掘り下げてみてみようと思います。
江戸時代の面影の残る20世紀初頭の東京は、狭い路地に小さな木造住宅がひしめき、火事が起こるとそれはもう大惨事。
江戸時代を代表する明暦の大火や「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉からもイメージしやすいのではないかと思います。
道路はというと、天気が良いと土埃が舞い、雨が降ると泥田のようになり、人がまともに歩くことすらできなかったといいます。
それらを改善し、東京の都市基盤づくりに尽力した尾崎の功績があってこそ、今の東京、そして中央区があるといっても過言ではありません。
しかし、欧米都市の道路事情を視察した市議会議員の有力者をもってしても、道路改良(道路拡張・舗装)に対する理解を得るのは難しかったそうです。

その最大の理由は、文化の違いにありました。
西洋人が天気や場所(家の中を含む)に関わらず靴を履いている一方、日本人は晴れの日には日和下駄、雨の日には下駄を履き、家の中では下駄を脱いでいました。
さらに、当時東京市内には1万軒ほどの下駄屋さんがあったそうですが、道路が舗装されてしまうと下駄の歯が減らなくなり、下駄が売れなくなると、営業継続の死活問題として下駄屋さんたちによる反対運動が起こったといいます。
より便利で歩きやすい道路に改良されることは、当時皆から歓迎されたのではないかと思っていましたが、実際は便利さだけでは片づけられない道路と履物の密接な関係があったのですね。
物理的な変化を考えるだけのまちづくりではなく、時として目に見えない文化的側面を考慮することも市民の理解を得るうえで重要になるというのは、現代にもつながる教訓なのではないでしょうか。

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また、街路樹の植樹や電車の市有化でもなかなか理解が得られず、反対運動が起こったこともあったといいます。
関東大震災や東京大空襲の被害により、それ以前の東京については現在あまり広く知られていません。
しかし、当時はすんなり理解が得られなかったとはいえ、尾崎の遺した都市基盤に対する考え方や功績の数々は、今後まち歩きをするうえで意識したいと思いました。

さらに、彼は東京市民の飲料水確保のため、莫大な資金を投入して奥多摩の広大な山々を確保したということはご存知でしたか?
当時の人々でさえ、水源となる山を市が買い取り、所有するという大がかりな構想は考えもしなかったのではないでしょうか。
そんな経緯で東京市の所有となった山こそ、中央区の森と同じく檜原村にある都民の森なのです!

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都民の森を訪れた際に、偶然見つけた精工舎(セイコーホールディングス)の八角時計については、【遠足シリーズ第14弾】森だけじゃなかった!檜原村で見つけた「中央区」でご紹介しています。

このように明治時代初期にも重要視された飲料水の確保ですが、来年中央区観光検定受験予定の方に覚えておいていただきたいのは、現在COREDO日本橋アネックスの敷地にある名水白木屋の井戸です。
今回その詳細は割愛しますが、江戸時代もその後の時代も、良水や飲料水の確保は重要だったのですね♪

そして東京築港(隅田川河口改良)については、尾崎以前に経済学者の田口卯吉が「外国の大都市は港をもっているところが多い。東京も築港を考えよ」と提唱しています。
これにより埋め立てが始まり、1892年に月島第一号埋立地が、1894年には第二号埋立地が完成。
今回の記事では至っていませんが、尾崎の功績を掘り下げると、中央区内を流れる隅田川にもいくばくか関係があるのではないかと思います。

 【遠足シリーズ第19弾】尾崎行雄、都市を江戸から東京へ


前述の通り東京の都市基盤整備に大いに貢献した尾崎には、1954年7月、病床にて憲政擁護と議会制民主主義の確立への尽力を称え、衆議院名誉議員の称号が贈られました。
そして同年10月、97歳(満年齢で95歳10ヶ月)の生涯に幕を閉じました。
11月3日には築地本願寺にて、衆議院による葬儀が盛大に執行され、当時の天皇皇后両陛下も深く哀悼の意を表しています。

そのような尾崎は、生前このような短歌を詠みました。
「過去はみな 未来のわざの備えとぞ 知れば貴し 悔いも悩みも」
「昨日まで ためせる事も見し事も 明日往く道の しるべなるべし」
「越し方に 重ね重ねし過ちは 行く手を照らす 光なるべし」

無駄な生活をした等と後悔するのは間違いで、今日までの失敗は今後成功するための試練と準備。
「人生の本舞台は常に将来にあり」と思って生きることが彼の活力になっていたのでしょう。
功績と人生観は非常に興味深く、引き続き調べてみようと思いました。

 【遠足シリーズ第19弾】尾崎行雄、都市を江戸から東京へ


【参考文献】
西川圭三『咢堂・尾崎行雄の生涯』(論創社、2009年)
中央区立京橋図書館で借りられます。

・1885年には、日本橋区選出の最年少の東京府会議員になりました。
・国会開設と共に明治憲法下での初めての総選挙が行われた際、アメリカや英国の議会を見て学んできた尾崎は、父の任地である三重県から衆議院議員の候補者として立候補し、政治家として歩む決心をしました。では、なぜ郷里の津久井ではなく、三重県から立候補したのでしょうか。
・郷里は津久井、衆議院議員の候補者として立候補したのは三重県という東京とあまり馴染みのない尾崎でしたが、東京市長に就任した経緯を辿ると、友人からの推薦があったといいます。その背後には、かつての政敵で、刺客によって暗殺されてしまった星亨の想いが影響しています。
それらの詳細が気になるという方は、ぜひ本書をお手に取ってご覧ください。