Hanes

112年ぶりに里帰り!「長崎屋宴会図」にみる日蘭交流史


こんにちは。アクティブ特派員のHanes(ハネス)です^^
11月4日にボランティアガイドを務めたまるごとミュージアムのバス内でご案内させていただきましたが、10月末、中央区好きには見逃せない驚きの情報を入手しました!
それが、「今年2月、オランダ商館長一行の江戸の定宿、長崎屋で開かれた仮装パーティーの様子を描いた水彩画(将軍家侍医桂川甫賢作)がオランダで発見された」というものです。

そして11月1日からの2週間、その水彩画を購入した神田外語大学附属図書館で開催される企画展「長崎屋の二階―シーボルト以前の蘭学開花―」にて、その江戸時代における日欧文化交流史の一級史料が特別に公開され、14日には専門家による講義があるというのです!
(詳細なプレスリリースはこちらから:本年オランダで発見された「長崎屋宴会図」を初公開 2019 年 11 月1日~14 日、神田外語大学附属図書館企画展にて
これは行かなければと時間を確保し、14日に神田外語大学(千葉市美浜区)へ行ってきました♪
(偶然同じ講義に参加していた先輩特派員yazさんの記事も合わせてご覧ください。)

そもそも長崎屋とは

中央区観光検定実施日まで約2ヶ月となったので、本題に入る前に長崎屋について簡単にご説明しましょう!
遡ること江戸時代、まだ開国していなかった日本は例外的にオランダと長崎の出島で貿易取引をしており、オランダ商館長は年に1度献上品を持参のうえ江戸に参府し、将軍に拝謁する習わしになっていました。
滞在するのは2~3週間で、宿所は日本橋本石町3丁目に設置された銅鐘 石町時の鐘の隣の長崎屋!
1633年から1850年までの間に合計166回(領事館として訪問した最後の1回を含めると167回)訪問したと言われています。
現在その宿所は物理的に残っていませんが、新日本橋駅の近くに長崎屋跡の案内板が見て取れます。

 112年ぶりに里帰り!「長崎屋宴会図」にみる日蘭交流史


このオランダ商館長一行には医師も含まれていたため、最新の医学・天文学・地理学を学ぼうと幕府の学者が連日長崎屋を訪問し交流を深めました。
その中には、杉田玄白平賀源内青木昆陽大槻玄沢など後に日本の医学の発展に大きな貢献をした人々も含まれていました。
そのような江戸唯一の西洋文明の窓口であった長崎屋は、市井の庶民の興味の対象ともなっていました。
勿論、屋内で交流することはできなかったため外から内部を覗こうとし、その様子は案内板にある葛飾北斎の狂歌画『画本東都遊』えほんあずまあそびに見ることができます。

そして前述の石町時の鐘ですが、「鐘が奏でる現役時代の物語」でご紹介した通り、現在は小伝馬町の十思公園に移設されています。
長崎屋の近くにあったことから、「石町の鐘はオランダまで聞こえ」という川柳が詠まれたことはご存知の方も少なくないのではないかと思います。

 112年ぶりに里帰り!「長崎屋宴会図」にみる日蘭交流史


蘭学を学ぶ者が出島のオランダ人を真似て太陽暦の新年を祝った「オランダ正月」の詳細および前述の大槻玄沢が鎖国中の日本にビールを紹介した人物であるというエピソードは、「トリビア満載!中学受験問題に学ぶ中央区関連の歴史と文化」をご覧ください。

前置きが長くなりましたが、これより今回お披露目された「長崎屋宴会図」について個人的に気になった点を含めてご紹介します。

企画展・講義

講義の前に企画展を見るため、神田外語大学附属図書館へ行ってきました。
展示されていたのは、今回のメインである植物学者桂川甫賢筆「長崎屋宴会図」の他、葛飾北斎の『画本東都遊』、日本で刊行された最初の蘭文法書、書写者不明の15点におよぶ蘭書からの抜粋『那波列翁再興軍記』なぽれおんさいこうぐんき、シーボルト著『日本植物目録』(原題:Naamlijst van Japansche gewassen)の写本等20点強。

 112年ぶりに里帰り!「長崎屋宴会図」にみる日蘭交流史

図書館(神田外語大学7号館)


その中でもやはりじっくり見入ってしまったのはシーボルトの『日本植物目録』の写本です。
シーボルトと言えば、以前「日本茶の魅力再発見!@第72回全国お茶まつり(2)」(一部画像が正しく表示されておりません)で言及した通り、あの上喜撰*を含む20種類以上のお茶を収集した人物!
*黒船来航時の狂歌「泰平の眠りをさます上喜撰たった四はいで夜も寝られず」の裏の意味は、「宇治の上等のお茶である上喜撰を4杯飲んだ結果、カフェインの効能により夜も眠れなかった」ことだといいます。(静岡文化芸術大学前学長 熊倉功夫先生による基調講演より)

私自身植物学には明るくないのですが、こうして日本と関連があるとついつい見てしまいます。
展示で開かれていたページでは、「アカウキクサ 満江紅」や「ヒルムシロ 眼子菜」の文字を読み取ることができました♪

112年ぶりに里帰りしたという実物の「長崎屋宴会図」と北斎の『画本東都遊』の希少な版本を間近で堪能した後、数年ぶりに大学の講義へ!
今回興味深い講義をしてくださったのは、神田外語大学日本研究所客員教授で京都大学名誉教授の松田清先生。
「長崎屋宴会図を読む」と題し、はじめに、文政5年以前の長崎屋図、桂川甫賢筆長崎屋宴会図、仮装宴会の企画と演出、おわりにの5部構成でわかりやすく長崎屋および当時の日蘭交流について説明してくださいました。

 112年ぶりに里帰り!「長崎屋宴会図」にみる日蘭交流史


先輩特派員yazさんもお書きになっていたように、本図は1907年にアムステルダムで競売にかけられた商館長ブロムホフの遺品の一つで、西暦1882年4月18日に長崎屋で開催された宴会の様子を描いたものです。
そこには洋装をし椅子に座る3名の日本人(馬場佐十郎、桂川甫賢、神谷源内)、和装をし座布団に座るオランダ人2名(商館長ブロムホフ、一等書記のフィッセル)、その他給仕をする女性を含む和装の日本人5名が見て取れます。
位置に注目すると、江戸時代の宴会形式である円座のように見え、畳にじかに座る日本人が主催者側で、和装のオランダ人がホスト役、洋装の日本人が見立て役とされています。
では、なぜ主客転倒した仮装宴会が開かれたのでしょうか。
その理由は、商館長一行に江戸の豪華な暮らしと礼儀作法を教えようとした結果だといいます。

そして今回の講義を通し、個人的に印象に残ったことが2つあります。
1つは、当時の蘭学者たちにオランダ名が付与されていたということです。
「長崎屋宴会図」には前述の通り3名の日本人が描かれていますが、図上にはオランダ名が見て取れます。
馬場佐十郎はAbraham、桂川甫賢はBotanicus、神谷源内はVan der Stolp。

 112年ぶりに里帰り!「長崎屋宴会図」にみる日蘭交流史


このオランダ名については講義で詳しい説明があり、長崎屋での日蘭交流が盛んだった当時、オランダ名が大流行したそうです!
シーボルトと共にやってきた商館長スチュルレルは、彼までの3代にわたる商館長の時代にオランダ名をもらった日本人のリストを作成しました。
その内訳が、ドゥーフ(商館長)時代に7名、トゥリング(医師)から1名、ブロムホフ(商館長)時代に17名、スチュルレル(商館長)時代に11名。
本図が描かれた前後の時代だけで36名の日本人がオランダ名をもらっています。
松田先生曰く、このリストは早稲田大学に所蔵されているそうです。

なんとなく想像はつくものの、どのような日本人がどのような理由で何を由来として各オランダ名をもらったのか...非常に気になります!
私が当時の蘭学者だったら、どのようなオランダ名がいただけたのか等とつい想像してしまいます(笑)

もう1つ印象に残ったものは、本図に描かれた服や小物です。
yazさんもご紹介していたように、洋装の日本人がかぶる帽子に注目すると、流行遅れの三角帽とフランス革命後の流行である山高帽の両方が描かれていることが分かります。
流行遅れで古いものをかぶっていることが何を意味しているのか、そんな興味深い点についても講義では順序だてた解説がありました。
ご紹介は割愛しますが、様々な文化や思想が入り混じり、絵画の合作や誤った解釈もあった当時の日蘭交流についての関心が高まったことは間違いありません。

 112年ぶりに里帰り!「長崎屋宴会図」にみる日蘭交流史


その他、水煙管、コートやニッカーボッカー、長崎屋の二階の構造等についても詳細な説明がありました。
しかし、本図に描かれている長崎屋の主人源右衛門については薬種商だったのではという推測にとどまり、他に描かれている日本人の男女が何者なのかも詳しくは分かっていません。
一見広く知られているようでまだまだ奥が深かった長崎屋とオランダ商館の関係。
今後新たな発見があることを期待しつつ、個人的にも引き続き長崎屋について調べてみたいと思いました。

松田先生曰く、本図の絨毯の緑色はダメージを受けやすいとのこと。
そのため今回のように2週間程一般公開される機会は本当に貴重で、最終日に見ることができて幸運でした!
最後になりますが、取材にご協力くださいました神田外語大学のご担当者様に御礼申し上げます。