五月雨ジョージ

「下り物」と「下らぬ物」~霊厳島と新川

江戸で「下り物」といえば、菱垣廻船や樽廻船などで「上方」から運ばれて江戸湊で陸揚げされた物資の呼び名でした。「下り米」「下り水油」「下り塩」などの生活必需品までが「上方」から“下って”来ました。

「下り物」は品質上等の高級品を意味していて、いわば現代の舶来品=輸入のブランド物といった感じでしょうか。

 逆に「下らない物」といえば「江戸地回り」「地酒」など、名産地とは言えない地元の品、いわゆる二級品のことを言いました。

新川は霊厳島を二分していた運河の名前です。川村瑞賢が開削したとして有名ですね。この運河の両岸一帯は「下り酒」の荷受問屋が軒を並べていました。そして、現在でもその名残は見受けられます。

 「下り物」と「下らぬ物」~霊厳島と新川

▲ 新川の跡の碑(新川公園)

 

 

 「下り物」と「下らぬ物」~霊厳島と新川

▲ 碑の正面(左)と裏側

 

菱垣廻船、樽廻船などの民間廻船組織による物流ルートは、江戸時代の上方と江戸を結ぶ物資の輸送手段として中心的な役割を果たしていました。その組織はそれぞれの商品別の荷積問屋と荷受問屋の同業組合とその連合体が運営していたそうです。

 また、輸送と価格の維持を確実なものにするために組合自体や幕府が監視したのが、輸送業者による「抜け荷」や「瀬取り」などの密貿易行為でした。

 さらにこの監視役の主体は、舟と河岸・物揚場の間の“艀(はしけ)業務”の組合でした。

 

 「下り物」と「下らぬ物」~霊厳島と新川

▲ 大川河口の江戸湊(「元禄江戸図」より)

 

 

 「下り物」と「下らぬ物」~霊厳島と新川

▲ 新川酒問屋(『江戸名所図会』より)

 

霊厳島の町の役割は「廻船と直接交渉(商売)ができる限られた町」だった点にありました。具体的には、諸廻船に船を附け野菜や小間物の出売りを商売にする「廻船附船仲間」が結成され、江戸湊に来た千石船(大型和船)に野菜・小間物をはじめ、戻りの公開に要する水も供給していました(現在の巨大タンカーの場合でも石油を買いに行く往路の航海にはバラスト代わりの水を積んでいきます)。昔も今も荷物を積まないカラ船の航海は物理的に不可能なのです。

霊厳島が水道が使えるほどに地盤が安定するまでは、江戸湊に集まる諸国の廻船に対して、神田上水からの水を供給していました。そして、霊厳島の町々への供給が神田上水から玉川上水に切り替えられると、増加する一方の諸国の廻船は、安心して江戸湊に来られるようになったということです。