てりふり(照降)町のお煎餅
『江戸買物独案内』(部分 赤字でふりがな加筆) 国立国会図書館デジタルコレクション
江戸時代のお買い物ガイドブック『江戸買物独案内』に紹介されているお煎餅屋「翁屋」です。「てりふり町」とありますがどこにあるか見てみましょう。
てりふり(照降町)はどこ?
『江戸切絵図 日本橋北神田浜町絵図』(照降町の位置にマーカー、橋名、地名加筆)国立国会図書館デジタルコレクション
堀江町3丁目と4丁目の間、現在の小舟町、小網町。今はなくなってしまった荒布(あらめ)橋(西堀留川)と親父橋(東堀留川)の間のわずか2丁ほどの通りがてりふり町(照降町)と呼ばれていました。地図上に黄緑色のマーカーを引いた通りです。
なんだか情緒のある名前ですね。どういういわれがあるのでしょうか?
江戸時代この通りでは、下駄と傘、雪駄(草履の裏に革をはったもの)を売る店が多く賑わっていました、照る日と雨の日に使うものを両方売っていたので照降町と呼ばれていたそうです。
晴と雨の混在した町。様々な人間模様がありそう……なにか物語が始まる予感がする二丁ほどのほんの短い通りの名前。この名前に惹かれる人はたくさんいるのでしょう。
江戸時代、十返舎一九は『栄益照降町』を書き、現代では佐伯泰英氏の『照降町四季シリーズ』があります。また、『鬼平犯科帳』の「のっそり医者」にも今回とりあげる照降町翁屋の胡麻せんべいが出てきます。
翁せんべいは甘かった!?
『川柳江戸名物』には次の二つの句が載っています。
〇 照降にとんぢやくせぬは煎餅屋
〇 煎餅屋ばかり照降なしに売れ
傘屋も下駄屋も晴雨によって売上高が違うけれど煎餅屋はお天気には関係なく売れていたことをよんだ句ですね。
また、『江戸名物詩 初編』には具体的な場所が「照降町角」と示されています。地図で赤い丸の印のあるところです。
同じく『江戸名物詩 初編』には翁屋のお煎餅の説明が書かれています。漢文なので読み下してみました。
「砂糖上品にして尤も軽し 進物年中客自ら栄ふ
縦ひ結構の干菓子有るも 此の如きの煎餅は江城にも少なり」
翁屋の煎餅は御進物に使われていたようですね。ここでびっくりしたのが煎餅といわれて多くの人が想像する米でできた醤油や塩で味付けされた煎餅ではなかったということです。
砂糖が使われているということは今でいう瓦煎餅?
江戸時代の煎餅
『和漢三才図会』国立国会図書館デジタルコレクション
江戸時代中期(1712年)に編纂された百科事典である『和漢三才図会』の「煎餅」のページには小麦粉を使った甘い煎餅の説明がされています。
小麦粉に糖蜜を加え、柔らかすぎず硬すぎない程度にこねて、薄く延ばして乾かしてから鉄製のふたのある型枠に入れて蓋をして両面を焼いて作ったようです。おそらく現在の瓦煎餅のような小麦粉を使った甘い煎餅を想像して間違いはないと思われます。
では、一般に煎餅と言って頭に浮かぶ米を原料とした煎餅はいつから食べられるようになったのでしょうか。
草加せんべいで有名な草加市のHPによると、日光街道の草加宿ができると、それ以前から食べられていた米を団子にして乾かした保存食を茶屋などで販売するようになりました。はじめは生地に塩を練りこんだものでしたが、幕末からは焼いた煎餅に醤油が塗られるようになったそうです。
現在一般的に想像する米のしょっぱい味の煎餅は小麦粉の煎餅より時代は新しく、翁屋の煎餅がご進物用だったのに比べ、どちらかというと庶民に親しまれていたもののようです。
現在の旧照降町
親父橋跡を背に荒布橋方向の写真です。
照降町をしのばせるものはなにもないようです。町名も傘屋も下駄屋も煎餅屋も見当たりません。
わずかな痕跡はてりふり町の両端にあった親父橋と伊勢町堀(荒布橋がかかっていた堀)の跡の説明板くらいでしょうか。
親父橋の説明板。照降町についても書かれています。
こちらの歯科医院とタバコ屋の建物のかべにあります。
【アクセス】日比谷線人形町A6出口 小舟町交差点方面へ
伊勢町堀(西堀留川)跡の説明板。現在工事中のフェンスに説明板あり。このあたりに荒布橋がありました。
【アクセス】小舟町交差点付近
小舟町天王祭
9月12日(木)から15日(日)まで小舟町天王祭が6年ぶりに盛大に執り行われます。是非お越しください。
こちらのリンク先「日本橋小舟町瓦版」で見どころがわかります。
ご覧になってから見に行かれるとより一層楽しめるかと思います。
15日の大神輿渡御の日本橋橋上担ぎ出しは、なんと107年ぶりだそうです。