株式会社彦晴

築地川南支川・東支川跡を歩く!

11月に書いた「築地川跡を歩く!」の続編です。前回のブログで割愛した築地川南支川跡・東支川跡を

また歩いてきました。今回は築地川公園の備前橋跡よりスタートして築地本願寺の東側を通り晴海通り

を横断して築地場外市場にある築地魚河岸小田原橋棟を通って築地魚河岸海幸橋棟へ入り海幸橋跡にて

Uターンして波除通り銀座方面に進み、新大橋通を横断して首都高速環状線銀座入口を目指します。

かつて築地川南支川には、備前橋、門跡橋、小田原橋が、同東支川には、安芸橋、海幸橋、越生橋

市場橋、北門橋が架橋されていました。しかしながら築地川南支川が昭和62年に、同東支川の北門橋

から市場橋間が昭和53年に埋め立てられてしまいました。市場橋から海幸橋間においてはなんと

平成7年埋め立てが完成しており、つい最近のことでもあります。

写真は今回街歩きのスタート地点、築地川公園の中にある備前橋跡の説明板です。橋名は橋の辺に

備前岡山藩邸あったことに由来するそうです。

 

 築地川南支川・東支川跡を歩く!

そして、2枚目の写真は備前橋跡からの築地本願寺です。築地本願寺の手前に見えるのは中央区立駐車場

と駐輪場です。古代インド様式で作られた築地本願寺本堂の屋根を確認することができます。ここから

築地川南支川跡の両側には遊歩道があり、晴海通りまでつながっています。河川の痕跡がないかな?と思い

ながら歩いたのですが何も見つけることはできませんでした。

 築地川南支川・東支川跡を歩く!

晴海通りまで出ると、善林寺の横に門跡橋の親柱が柵まで作られ、残されていました。

そしてなんと新たに案内板まで建てられいました。以前から親柱は残されてはいたのですが、

親柱は半分土に埋もれていて草が生えていました。今回の街歩きでこのきれいに整備された

門跡橋の親柱を確認できたのは、私としては非常にうれしかったです。また説明板には当時

の築地川南支川の水の流れる写真あり、見入ってしまいました。説明板の最後には

「令和二年三月 中央区教育委員会」の記載もありました。

この門跡橋は当初は「築南橋」と橋名を付けられましたが、西本願寺の門徒たちが「門跡橋」への

名称変更を東京市に願い出たことにより、「門跡橋」に改称されたそうです。

 築地川南支川・東支川跡を歩く!

そして晴海通りの門跡橋の横断歩道を渡ります。目の前には築地魚河岸小田原橋棟の入口が確認

できます。ちょうどこの築地魚河岸が建っている土地に築地川南支川が流れていました。

階段を登ろうとしたのですが、正面右側に石碑があることを思い出し立ち寄ることにしました。

 築地川南支川・東支川跡を歩く!

写真の石碑には「八紘一宇」との文字が確認できます。八紘一宇とは元々は日本書紀に出典がある

そうですが、第二次世界大戦中に海外侵略を正当化するスローガンとして用いられたそうです。

横のひとまわり小さい石碑には「築地門跡青年団」の文字が確認できます。築地は海軍の街として

有名ですね。だからこちらの石碑も門跡橋のたもとに建立したのでしょうか?

築地魚河岸の小田原橋棟の屋上そして3階のフードコートを抜けて波除通りを渡り廊下で渡り

築地魚河岸の海幸橋棟の屋上にやってきました。まさにこの部分に架かっていたのが小田原橋で

あり、ここで築地川南支川と東支川は合流していました。

 築地川南支川・東支川跡を歩く!

こちらの写真は築地魚河岸海幸橋棟の屋上から隅田川方面を撮ったものです。築地川東支川跡に

鉄板が敷いてあって何となく川のように見えないでしょうか?

この先で東川支川は隅田川に合流していたのです。

左側に見える緑青は波除稲荷神社の屋根です。海幸橋で築地魚河岸より外に出て、波除通りを

新大橋通り方面に進もうと思います。

 築地川南支川・東支川跡を歩く!

すると、場外市場の商店と海幸橋棟の間が少し低くなり排水溝らしきものが確認できます。左側の

築地魚河岸海幸橋棟の部分には水が流れていたのです。

波除通りを新大橋通り方面へ進みます。東川支川の跡地は魚河岸海幸橋棟や駐車場として再利用

されていました。新大橋通りを横断してさらに銀座方面へ進みます。

 築地川南支川・東支川跡を歩く!

東支川跡は市場橋駐車場、市場橋公園に再利用されています。その公園の片隅に「東京盲啞学校

発祥の地と日本点字制定の地」の石碑が建っています。私は以前から石碑があったことは知って

いたのですが、その学校があのジョサイア・コンドルの設計であったことを知りびっくりしました。

ジョサイア・コンドルと言えば鹿鳴館を設計したこと、それから開拓使物産売捌所を設計したこと

で有名ですよね。学校は関東大震災によって大破してしまったそうです。

 築地川南支川・東支川跡を歩く!

市場橋公園を過ぎると、東支川跡には築地社会教育会館、築地保育園などが建てれれています。

そして、こちらの写真は海軍軍医学校跡の石碑、海軍兵学寮跡の石碑、そしてその右側にある

石なのですがこれが河川の欄干跡らしき構造物と繋がっております。

 築地川南支川・東支川跡を歩く!

写真の渦巻状の模様が彫られてた石までつながっていました。先ほどの三番目の石は北門橋の

一部なのでしょうか?誰か詳しいいこと知っているお方がいれば教えてください。

そして隣は、首都高速環状線の銀座入口となります。

今回の街歩きも目的地に到着となりました。

この築地川は、もともとは築地が埋め立て地であったため埋め残されて水路だったのですが、

当初、物流の要が船舶であったときは、機能していたのですが、物流の中心が車両に移行する

にあたり、埋め立てられる運命にありました。築地川南支川跡、東支川跡は公園、販売施設

駐車場、公共施設等に生まれ変わっていました。〇〇橋という名前は至る所で確認できました。

それにしても、我が中央区には埋め立てられた河川が多すぎます。この河川がもし、現代にも

残っていれば東京のイメージも大きく変わったものとなったでしょう!