江戸伝馬町牢屋敷と市中引き回し
1月に明石町の郷土天文館の歴史講座で、伊能秀明先生の「小伝馬町牢屋敷の世界」を受講し、小伝馬町に行ってみました。人形町通りと江戸通りの交差点の近くにある十思公園、十思スクエア、大安楽寺の敷地は江戸時代には牢屋敷がありました。慶長年間から明治8年、市ヶ谷に収獄が出来るまで、約270年存続し、全国から送られた囚人は数十万人を超えたと言われます。
処刑された囚人の供養のために建立された「大安楽寺」、地蔵尊の場所に処刑場がありました。安政の大獄に連座した吉田松陰が刑死した場所でもあります。十思スクエアの中には中央区まちかど展示館があり、牢屋敷が模型で再現されています。
概要
周囲は堀が巡らされ、土手が築かれています。塀で囲まれた敷地内には獄舎、穿鑿所(取り調べをする)、拷問蔵や首斬場などがあり、牢屋奉行の住居や牢屋同心の長屋も。広さは2618坪もありました。責任者である牢屋奉行は代々世襲制で、石出帯刀が務め、配下に牢屋同心が40~80名、囚人の世話をする獄丁と呼ばれる役人が50名程いました。
牢屋敷の収容者は300~400名、時には900名に及ぶ過剰拘禁があったと言います。役割は、罪人や刑の確定者を拘禁する場、刑の施行場でありました。獄舎は身分によって分けられていました。
慣習
牢内は囚人による完全自治制で、役人ですら権限の及ばない世界でした。厳しい身分制度があり、牢名主を筆頭に牢役人と言われる囚人が獄中を統治していました。平囚人は畳1枚に何人も入れられて、横になって寝ることも許されません。初めて入牢した者は、牢内役人から罪状を問い質され、牢内の掟を厳しく教え込まれました。
食事は1日2回、玄米と汁、漬物があてがわれました。夏は暑く、冬は寒く、窓がないので、日光も入らず、風通しも悪く、栄養状態も悪く劣悪な環境で、皮膚病などの病が蔓延していました。
牢内の人員が増え生活に支障をきたすようになると、規律を乱す者を対象に暗殺が行われ、「病で死にました。」と届け出、咎めることが出来ませんでした。不正行為が横行し、「この世の地獄」でした。
情けの鐘
十思公園には、江戸時代最初の時の鐘と言われる「石町時の鐘」があります。二代将軍・秀忠の時代に日本橋石町に納められていました。牢屋敷があった場所からは2丁(約218m)ほど離れていましたが、鐘の音を合図に処刑が執行されたため、受刑者の気持ちをおもんばかって、わざと遅れて鳴らされたこともあり「情けの鐘」とも言われたそうです。松陰はどのような思いでこの鐘を聞いたでしょうか。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし大和魂」辞世の句を刻んだ碑が近くにあります。「石町時の鐘」は明治に廃止されましたが、昭和5年に十思公園に建設された鉄筋コンクリート造りの鐘楼に移設されました。現在は大晦日のみ鐘が撞かれています。
江戸市中引き回し
江戸時代にあった様々な刑罰の中でも、一番重いのは死罪で、死罪の中には、打ち首獄門、火刑、鋸挽き、はりつけ、など、犯した罪によって異なってはいましたが、最も重い刑が市中引き回しの上、死罪になるというものでした。特に当時は封建社会で身分制度で縛られていたので、その根幹を揺るがすような事件、子が親を殺害したり、地主や名主殺しは引き回しの上、打ち首獄門、放火は引き回され火刑、辻斬り、偽薬の販売、貨幣偽造なども重罪として引き回されました。市中引き回しは、刑罰に付随したイベントー見せしめでした。
罪人は縛られて馬に乗せられ、その前を氏名、年齢、罪状が書かれた捨札を掲げた下級役人が歩き、4~5人の与力や同心に囲まれていきました。みすぼらしい姿では罪人に同情が集まり、為政者に対する反感を招かないよう、身支度を整え、首に数珠をかけ、また、途中で酒やたばこを買う小銭も支給されました。
市中引き回しは伝馬町の牢屋敷の裏門から出発し、時計回りに外堀に沿って歩き、決して内側へ入らず進みました。多くは町人が暮らす町を巡り、たくさんの人々に見せながら行きました。
コースは2つあり、打ち首の場合は牢屋敷に戻り、磔や火刑は鈴ヶ森や小塚原の刑場に連れていかれました。約28キロのコースで(山手線の全長は34.5キロ)丸一日がかりの大イベントでした。
十思公園を出発し、小伝馬町、堀留町、小舟町を行きます。小舟町から江戸橋を渡ると左手に三菱倉庫のビルと我が国における郵便制度発祥の地、日本橋郵便局が見えてきます。証券会社が立ち並ぶ日本橋兜町を過ぎ、茅場町へ入ります。徳川家康が入府したころは、一面茅の草原で、屋根の材料になる茅を商う商人が住みついていました。その後、埋め立てが進み、隣の八丁堀には多くの与力、同心が住んでいました。
紅葉川跡の首都高速道路に沿って進むと、上も下も高速道路になっている「まつはた橋」があります。先日の東京ダンボさんのブログで、鳩害対策が施された高架橋の通っている橋です。そこを渡り宝町を抜けて京橋へ。
京橋は慶長年間に行われた天下普請で架けられた橋で、その後、何度か架けかえられました。京橋川は外堀の開削と同時に作られた水路で、延長は600メートル、水運の便が良く、様々な物資が運ばれました。戦後の昭和34年に京橋川が埋め立てられたのを機に橋は撤去され、明治8年の親柱が保存されています。
この後、道は銀座、新橋へ続き、港区へ向かいます。銀座の歩行者天国もこのところの状況で閑散としていました。殺人や買収が横行する牢屋敷、見せしめのための市中引き回し、近世都市江戸の陰の部分とも中央区は深い縁があったのですね。歴史の一部を知ると、今憩いの場になっていることが余計に貴重に思えてきます。
参考文献:「大江戸タイムスリップ・ウォーキング」 酒井 茂之 著
参考資料: 小伝馬町牢屋敷の世界ー驚くべき牢内の作法とは?- 伊能 秀明 偏