写楽さい

■中央区歴史逍遥<17> 岸田劉生『新古細句銀座通』その1

 異才の画家・岸田劉生(きしだ・りゅうせい)は明治24年(1891)6月、銀座2丁目の薬舗「楽善堂」を経営する岸田吟香(ぎんこう)の四男として生まれた。来年、生誕130年を迎える。絵画は黒田清輝に学び、文展に入選する。大正初期に娘をモデルに多くの「麗子像」を描く。昭和4年(1929)12月、38歳の若さで亡くなった。

 大正12年(1923)の関東大震災で壊滅した東京だが、震災前の古き良き時代を振り返った特集が東京日日新聞に掲載された。岸田劉生は昭和2年(1927)5月、生まれ育った銀座の回顧録を『新古細句銀座通』(しんこざいくれんがのみちすじ)と題して綴っている。上図は同著の挿絵で「生家図だが、30年前なのでうろ覚え」とある。

 明治から大正期の銀座模様が伝わるこの文章を連載で紹介してみたい。

 この著作は青空文庫に掲載されている。文庫本は「講談社文芸文庫編『大東京繁昌記 下町篇』講談社発行」がある。

♣原文紹介 「新古細句銀座通」 おもいで(1) ①

*原文の縦書きを横書きに、漢数字を算用数字に変えた。

 私は明治24年に銀座の2丁目11番地、丁度今の服部時計店のところで生まれて、鉄道馬車の鈴の音を聞きながら青年時代までそこで育って来た。だから銀座のうつりかわりは割合にずっと見てきている訳であるが、しかし正確なことはもとよりわからない。が、「煉瓦」と呼ばれた、東京唯一の歩道時代からのいろいろのうつりかわりにはまた語るべきことも多い様である。いろいろの思い出やら、変わり行く世の姿から思い起こす批評などとりとめもなくかいてみようと思う。

 御承知の方々も多いと思うが私の生家は目薬の精錡水の本舗であって、岸田の楽善堂というよりも精錡水(せいきすい)といった方が通る位の店であった。父(吟香)の道楽から店を半分に切って一方を薬房、一方を書房とし、書房では支那の筆墨硯紙その他文房具風のものや、書箱などを売っていた。唐紙の様な紙を太くこよりの様にしたのに火をつけ、フッと吹くと、ポッと燃えフッと吹くと消えるという様なものがあったりして、面白がってそれをやって遊んだことがある。よく支那人が買いに来ていて番頭さんが片言で、「鎮座(チンザオ)々々」なんどゝやっていた。

(次回に続く)

資料で見る銀座

資料で見る銀座 ■中央区歴史逍遥 岸田劉生『新古細句銀座通』その1

【1】明治35年頃の銀座2丁目付近地図(上が西)  1丁目寄りの角から4軒目に「岸田吟香 精錡水本舗 楽善堂薬房」(矢印)とある。その南隣が勧工場の南谷。文中に「服部時計店のところで・・・」とあるのは、執筆当時の昭和2年頃、4丁目の服部時計店が建築中で仮店舗がこの場所にあったことによる。

 

 ■中央区歴史逍遥 岸田劉生『新古細句銀座通』その1

【2】明治期の楽善堂 目薬「精錡水」の看板(京橋図書館蔵)

 

 ■中央区歴史逍遥 岸田劉生『新古細句銀座通』その1

【3】現在の銀座2丁目、楽善堂跡付近。(@AM)