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水天宮と有馬家の物語

上の画像は上から順に水天宮(福岡県久留米市にある水天宮の全国総本宮)、東京水天宮(中央区日本橋蛎殻町にある、おなじみの水天宮)、そして兵庫県の有馬温泉近くにある有間神社という神社の社紋です。(それぞれHPから拝借しました)

東京水天宮()はもともと水天宮の分霊を勧進したものですが、社紋が有間神社の社紋とミックスしたような面白いデザインになっていますね。

 

「どうで有馬の水天宮」「情け有馬の水天宮」という地口にもあるよう、水天宮と有馬家の間には深いつながりがあります。しかも現在の東京水天宮の宮司さんは有馬頼央(よりなか)さんという、摂津有馬家(以下、有馬家)17代の当主にあたるかたでもあるので、もはや一体のものと言ってもよいのかもしれません。

また、東京水天宮の由来にも『有間(有馬)神社のご祭神である天御中主大神のご神徳を代々忘れぬよう、有間神社の社紋である「三つ巴」を有馬家の家紋としました。』とあるよう、有馬家と有間神社もゆかりのある間柄でした。

 

ここでは、そんな有馬家と水天宮を巡る、興味深い歴史をかいつまんでご紹介してみます。少々長いので、外出自粛中のお時間のあるときにでも読んでみてください。

(年表・参考文献は最後にまとめて記載しています)

 

 水天宮と有馬家の物語

「東京水天宮」という書き方は馴染みが薄いかもしれませんが、この記事では久留米の水天宮総本宮についても言及しますので、久留米のほうを水天宮、蛎殻町のほうを東京水天宮と書かせていただきます。現在(2020年)は東京水天宮の境内の表記は全て「水天宮」で統一されているようですが、少し前までは右のような幟(のぼり)で社紋を使い分けていたときもあったようです。(たびづとさんのブログより)

有馬家のはじまり

有馬家のはじまり 水天宮と有馬家の物語

戦国大名として有名な赤松氏という、源氏の流れを汲んだ家系がありました。室町時代の初め頃(14世紀)、赤松則祐の五男、赤松義祐が摂津の国有馬郡の地頭に任じられたことから「有馬」という姓を名乗るようになったといわれています。ただ、その嫡流(本家の家筋)は織田信長の時代に途絶えてしまい、それまで200年に亘って拠点としていた有馬郡も失ってしまいました。

※左の画像は赤松則祐。胸当てのところに三つ巴の紋が描かれていますね。(出典:集古十種~wikipedia)

ところが、庶流(分家の血筋)であった有馬則頼・豊氏父子、彼らはもともと豊臣秀吉・秀次に仕えていたものの、関ヶ原の戦いでは東軍(家康)に与し、その功績を認められて、父の則頼は有馬家旧縁の地、有馬郡2万石を再び与えられることになりました。子の豊氏も福知山藩6万石を与えられたのち、則頼没後は有馬郡も併せて8万石の藩主となったようです。

 

豊氏はその後大坂の陣でも功績を上げた結果、今度は福岡の久留米藩21万石の大名として移封され、ここに久留米藩主有馬家の歴史が始まることになります。1620年のことです。

 

そういういきさつがあった結果、摂津有馬家の初代は則頼、藩主としての初代は豊氏とすることが通例のようです。有馬頼央宮司へのインタビュー記事(AERA.dot)では、頼央氏は「16代」とされていますが、これは「藩主として」16代目ということになりますね。

 

水天宮のはじまり

水天宮のはじまり 水天宮と有馬家の物語

話は平安時代末まで遡ります。壇ノ浦の戦い(1185年)で幼い命を落とした安徳天皇と、その母:高倉平中宮、祖母:二位尼の3人を祀った「尼御前神社」という小さな神社が、もともと九州久留米の地にありました。高倉平中宮に仕えていた女官、按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ)が久留米に落ち延びて開いたとされています。

 

その伊勢のもとに、平氏の一門であった平右忠が訪れ、右忠を祖とする「真木(まき)」家が代々、尼御前神社を守っていました。

 

江戸時代に入り、久留米で地盤を築き始めた有馬家の三代目、忠頼が尼御前神社を保護し、現在の地(久留米市瀬下町)に立派な社殿を建立、「水天宮」と改名したのが水天宮のはじまりです。

源氏ゆかりの有馬家が、平氏ゆかりの神社を保護したという興味深い組み合わせですね。

 

総本宮水天宮の社紋は椿の花の社紋ですが、これは全国各地にたくさんある安徳天皇伝説のひとつ、『実は安徳天皇は壇ノ浦で亡くなったのではなく、久留米近くに落ち延びた後、長じたのちに玉江という女性に恋をし、その女性の美しさを椿の花にたとえた』という話によるものなのだそうです。

 

尼御前神社が水天宮になった際、元々祀られていた平家ゆかりの3人に加え、有馬家発祥の地、有馬の里の有間神社の祭神のひとつ、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が主神として合祀されたたようです。

その後、水天宮は九州を中心に日本全国に多くの分社ができていきますが、それらの総本宮が久留米の水天宮なのです。

※画像は久留米の総本宮水天宮。wikipediaから。

東京水天宮のはじまり

文久元年(1818年)、9代藩主有馬頼徳(よりのり)が、三田にあった久留米藩の江戸屋敷に水天宮の分霊を勧進したのが東京の水天宮のはじまりです。(日本橋区史には、分祀ではなく、遥拝所であったという記述もありました)

藩邸内にあったため一般の参拝はできませんでしたが、「安産の霊験あらたか」なことが評判になって塀越しに賽銭を投げ入れる人が続出。ついに毎月5の日に限って公開したところ、賽銭や縁起物の販売で年間2000両ものお金が集まり、当時財政難でもあった久留米藩の貴重な副収入にもなったそうです。

 

明治維新と久留米藩難事件

明治維新と久留米藩難事件 水天宮と有馬家の物語

明治維新(1868年)をはさんで、久留米藩は激流の中にありました。尊王攘夷派と佐幕派が激しく対立して抗争していたのです。

当時の藩主の有馬慶頼(よしより。後に頼咸:よりしげ と改名)は、保守派というかノンポリだったようで、尊攘派のリーダーであった真木保臣(真木和泉)を排除します。「真木」という名前からわかるよう、彼は水天宮の神官の家系でした。

 

真木和泉は禁門の変(1864)に参加した後、会津藩や新撰組の追及を受けて自害。いったん力を失った尊攘派ですが、明治維新と同時に再び力をつけます。「尊王」が実現してしまったので当然ですね。しかし明治政府が「攘夷」ではなく開国に動いたことに不満を持った彼らはなんと反政府クーデターに加担したのです。

 

ところがこれが計画段階で新政府にバレた。いわゆる「久留米藩難事件」というものです。その結果、久留米城は明治政府の命を受けた熊本藩によって一時占拠されたりもします。

幕府側であったはずの頼咸自身は維新と同時に新政府側に立ち、久留米藩知事にも任命されていましたが、この事件の責任を追及されて謹慎処分に。江戸屋敷も没収されてしまいました。

 

右は有馬頼咸の写真!です。(wikipediaより)

東京での有馬頼咸

東京での有馬頼咸 水天宮と有馬家の物語

頼咸自身は廃藩置県によって藩知事の任を解かれ、華族として遇されることになりました。

しかし、屋敷を没収されたことにより、屋敷内に分祀されていた水天宮も移転を余儀なくされます。

 

頼咸の場合は臣下のクーデター未遂が屋敷の没収理由でしたが、そもそも大名の江戸屋敷というのは徳川幕府が供与していたもの。明治維新と同時にほとんどの江戸屋敷は新政府によって接収され、官庁になったり、改めて民間の有力者に払い下げられたりしていました。都心の不動産の大半が旧財閥系のデベロッパーの所有になっているのもそのためですね。

そしてまた、ほとんどの大名は江戸屋敷を接収されると同時に国許に戻りました。ところが頼咸は久留米には戻らず、東京に残る道を選んだのです。三田屋敷没収の明治4年にひとまず青山に転居、そして翌年、日本橋区蛎殻町の戸田熊之丞の屋敷だった場所に落ち着くことになりました。

 

なぜ「久留米藩知事」でもあった頼咸が国許に戻らなかったのかは推測でしかありませんが、臣下の尊攘派・佐幕派双方に血が流れた場所には戻りにくかったのかもしれませんね。

 

・・・そんな激動の人生を送った頼咸でしたが、蛎殻町に落ち着いた後は、地元の小学校の設立にあたって大金を寄付したことを感謝されて学校名に「有馬」と冠してもらうなど(現:有馬小学校)、『教育熱心な資産家』として有名になりました。

 

上の図は4代目 歌川国政による『人形町通り蛎売町水天宮参詣群集図』という、明治前期の水天宮です。この絵の左上のほうに「百福駢臻」(ひゃくふくべんしん:福がならびいたる)、「千祥鱗集」(せんしょうりんしゅう:めでたいことが集まってくる)という縁起物の幟に三つ巴の紋が見えます。(出典:TOKYO DIGITAL MUSEUM)

「千祥雲集」のほうがポピュラーな言葉かな?とも思いましたが、水天宮の巫女さんによるブログによれば「千祥鱗集」とのことでした。

有馬家ここにあり

有馬家ここにあり 水天宮と有馬家の物語

幕末の激動の中で、自ら故郷との縁を絶ったかのようにも見える有馬頼咸。そして頼咸と共にあった東京水天宮。

そう考えると、東京水天宮の社紋が、水天宮の社紋に有馬家当主の家紋も加えたものになっているのは、もしかすると「有馬家ここにあり」という主張が込められているのかもしれませんね。(あくまでも個人の感想です)

有馬家はその後15代の有馬頼寧(よりやす)氏という傑物(農林大臣、中央競馬会理事:有馬記念レースは頼寧を記念したもの、プロ野球:東京セネターズのオーナー、等)を輩出したり、もともと蛎殻町の奥まった場所にあった水天宮が区画整理で「新大橋通りと人形町通りの交差点」という一等地に面することになったりと、ここ東京で繁栄の歴史を続けることになりました。

上の写真は現在の水天宮の鬼板を拡大したものです。三つ巴の紋が眩しく輝いています。

おまけ:有間神社訪問記

おまけ:有間神社訪問記 水天宮と有馬家の物語

昨年、大阪に出張したついでに、ちょっと足を延ばして兵庫県の有間神社を訪れたことがあります。

有間神社自体は式内社(927年に撰上された延喜式神名帳に社名が記載されている神社)でもある、とても長い歴史を持つ由緒正しい神社です。

 

現在では、御旅所と本殿を結ぶ参道を、神戸電鉄三田線と国道15号線の2つが思い切りぶった切ってしまっていたり、最寄駅の岡場駅のあたりはニュータウン化しつつありますが、それでも御旅所のあたりに立って神社を眺めると(右)、千年以上もの間、ずっと奥深い山里に静かに佇んでいた神社だったのだということが容易に想像できます。

 

兵庫県の有馬と福岡の久留米、そして東京の蛎殻町。互いに数百キロの距離を隔てて歴史がつながっているのかと思うと、なかなか感慨深いものがありました。

 

略年表・参考文献

略年表:

12世紀末頃 久留米に尼御前神社成立
14世紀頃 播磨国有馬で赤松義祐が有馬姓に
15世紀 有馬本家断絶
1620 有馬豊氏が久留米藩21万石を賜る
1650 有馬忠頼が尼御前神社を保護、水天宮のはじまり
1818 有馬頼徳が江戸屋敷に水天宮を勧請
1864 禁門の変。真木和泉没
1868 明治維新
1871 久留米藩難事件
1872 蛎殻町水天宮のはじまり
2009 有馬頼央氏、有馬家初の水天宮宮司に

 

参考文献:

日本橋区史第4冊 1916、 国会図書館デジタルコレクション
久留米市誌上巻 1933、国会図書館デジタルコレクション
明治4年久留米藩難記 1911、国会図書館デジタルコレクション
福岡県神社誌中巻 1945、国会図書館デジタルコレクション
有馬家系図(「有馬義源公」より) 1908、国会図書館デジタルコレクション
中央区の歴史 1979、北原進、東京ふる里文庫
川と掘割20の跡を辿る江戸東京歴史散歩 2017、岡本哲志、PHP新書
東京水天宮ものがたり 1985、浜野卓也(協力:水天宮社務所)、講談社
及び各種wikipedia等