江戸の街にゾウが来た。
「世界ゾウの日」が設けられている。
絶滅の危機に瀕しているゾウの保護について、世界中に呼びかける日である。
8月12日。
恩賜上野動物園のリーフレットで知った。
保護に向けて動物園がどんな活動をしているのか知りたくなり、そしてゾウの姿をしっかり見たいと思った。
この時期は入園に人数制限があり、あらかじめオンラインで整理券を予約した。
何年ぶりだろう。
吸い込まれそうな、優しいゾウの瞳と向き合えたのは。
子供達が小学生の頃だった。
夏休み期間中に動物園に行くと、「暑い。くさい。疲れた。」と不満が噴出。
しかし、放飼場(ほうしじょう)に近づくにつれて、ズンズンと歩き回るゾウの姿に息をのみ、食い入るように見入っていた。
現在の動物園は、暑さ対策も充分。
木陰もたくさんあり、室内展示の空調設備やミストシャワーなどが設置されていた。
消臭の工夫が施されているのか、臭いもあまり気にならなかった。
「ゾウのすむ森」は土を多く使った放飼場で、来園者と柵を隔て平面でつながっていた。
江戸城内堀から本丸跡を望む
時は享保年間、8代将軍徳川吉宗公の時代にさかのぼる。
江戸の街にゾウがやってきた。そして、およそ14年間飼育されていたのだ。
浜離宮恩賜庭園の案内板
ゾウは、貿易商人が将軍に献上するために連れてきたとも、吉宗が輸入したとも言われている。
交趾広南(ベトナム)から遙々海を渡り、長崎へ上陸。
そこから陸路で江戸まで向かう。
巨体を揺らしながら大小の河を渡り、息を切らせて急峻な峠道を越え、一歩一歩進む。
将軍献上ともなれば、通過する土地の関係者の緊張度合いは、いやが上にも高まる。
享保14年(1729年)4月28日、京都において「広南従四位白象(こうなんじゅしいはくぞう)」の位を与えられ、朝廷に参内。
中御門天皇、霊元上皇に拝謁している。
この日が日本の記念日、「象の日」となった。
長崎から江戸まで75日。
約350里を歩ききった。
吉宗は江戸城大広間の前庭から、大旅行を成し遂げた牡のゾウ1頭を観覧している。
初めて目にした江戸時代の人々の驚きは、どんなものであっただろうか。
日本中に「象ブーム」が出現した。
書籍、瓦版、錦絵、土人形。ゾウをモチーフにした品々が次々と作り出された。
山王祭にも、張り子の山車が登場したのだ。
江戸市中を練り歩いたゾウは、浜御殿(浜離宮恩賜庭園)に収容された。
(ようやく中央区にたどり着きました。)
ゾウの住まいが浜離宮のどの位置にあったのか、明確な痕跡は残っていない。
手掛かりとなりそうな掲示板が、花木園の中にあった。
飼育には相当な経費が掛かったようだ。
当時、ゾウはどんなものを食べていたのだろうか。
藁、米、笹の葉、草、麦まんじゅう、ダイダイ、九年母。
昨年の秋口に浜離宮を訪ねたとき、九年母の案内板が掲出されていた。
日本の柑橘類の元祖の一つである。
浜離宮内にも九年母の木があるのだが、木々の間で少し分かりにくい。
皇居東御苑、江戸城本丸跡の果樹古品種園に九年母の木が植栽されていた。
好奇心旺盛な吉宗は、多様な動物を輸入している。
ダチョウ、ヒクイドリ、ジャコウネコ、クジャク。狩猟用の猟犬。30頭あまりの西洋馬。
そして、ゾウ。
オランダから献上された、ヨンストンの動物図鑑を見て、実物を見たいと指示を出した。
閉じられていた西洋への扉が少し開いた。
ゾウは寛保元年(1741年)、中野村の源助さんに払い下げられた。
中野区本町三丁目の朝日が丘公園に、象小屋(象厩、きさや)の跡の解説板が設置されている。
この源助さん、なかなかのやり手。
見世物として公開する一方、霊獣である象の糞ならば萬病に効くといって、丸薬として売り出したとか。
麻疹や疱瘡が流行した江戸時代、飛ぶように売れたという。
中野区中央二丁目に、宝仙寺という大きなお寺がある。
ゾウの骨や牙が納められていたのだが、太平洋戦争の戦災にあってしまう。
残されたゾウ関連の資料は、今年4月にリニュアルオープンした中野区立歴史民俗資料館に展示されている。
動物園のゾウのすむ森の前に来ると、乳母車を押したほとんどのママは歌い出す。
「ぞうさん ぞうさん おなはがながいのね
そうよ かあさんもながいのよ」
お母さんと一緒。
我が子も歌っていた。
「おはなな、ななななな。」
じょうず~。