向井将監忠勝と三浦按針との海の男のロマンをかけた夢に驚嘆!
中央区日本橋室町 按針通りにある三浦按針屋敷跡の碑
向井将監忠勝と三浦按針の2人は主君徳川家康に特別の信頼関係と共通の絆があったと思われます。
1582天正10年竹田氏滅亡後、浪人となった忠勝の父正綱に口を付け、200俵で家臣にしたのは徳川家康です。浮島の合戦で、武田勝頼の船を捨てて陸へ上がれの命令に、戦船してこそ水軍であると信念を強くもって戦った功績を認められたからです。
1597慶長2年2代将軍秀忠に召され、1601慶長6年父正綱の跡を継いで忠勝21歳は初代将軍家康を送迎する御船手奉行として清水港江尻渋川口の船蔵で『国一丸』御召船を預かりました。
向井将監忠勝屋敷は江戸港の日本橋川筋の中心にあり、三浦按針屋敷は斜め向かいでしたが、1604慶長9年にはすでに三浦按針は長崎平戸へ移住して『あんじん丁』と『豊島郡江戸庄図』に記載されています。
徳川家康は浦賀港を国際貿易港として活用するため、三浦按針と忠勝にスペイン貿易統括を命じ、忠勝は浦賀港を出入りするスペイン商船の渡海朱印帳を仲介していました。
忠勝は船奉行として大型帆造船・航海技術・水先案内・海外貿易等を外交顧問の三浦按針から学ぶことが多かったと思われます。この2人の海の男の出会いにロマンを強く感じ、江戸幕府初期の歴史に大きく関与していたことに驚きを覚えました!
月刊日本橋8月特集「按針の足跡 逸見を訪ねて」をご紹介!
日刊日本橋6月を2021.7.31のブログに江戸から明治にかけて水練場向井流をご紹介しております。
https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=2405
8月に「向井将監と三浦按針」を取り上げる予定でした。何と、偶然が重なり、月刊日本橋8月特集「按針の足跡 逸見を訪ねて」が記載されていました。6.8月とこんな偶然が重なり感動して、月刊日本橋編集部にお礼の電話をしてしまいました。
1747延亭4年日本橋から浄土寺に寄進「江戸大伝馬町の名を刻まれた梵鐘」
江戸日本橋と三浦按針とのえにしは現在に至っても続いていることは、素晴らしいことです!
それは1747延享4年鋳造の梵鐘に「日本橋大伝馬町 西村伝兵衛」の名も刻まれています。真偽のほどは定かではありませんが、按針の妻の出自については日本橋大伝馬町の名主・馬籠勘解由の娘雪という説があります。この梵鐘がそのことを間接的に物語っているのでしょうか?
第二次世界大戦中に金属回収令によって供出され、戦後はアメリカに持ち出されてアトランタの公園に置かれていました。昭和36年に日米修好通商条約100周年を記念し三浦按針屋敷があったとされ菩提寺といわれる漪江山浄土寺に戻されました。浄土寺では鐘楼が壊されてしまったため、現在は玄関先に鎮座するのみとなっています。
1798寛政10年按針町から寄進された妻の供養塔を守るように立つ一対の石灯籠
「江戸日本橋按針町」と大きく文字が刻まれた石灯籠は1620元和6年享年56歳按針死後170年の1789年に寄進されました。両灯籠の外側側面は「十」の文字がやや不鮮明です。
相州三浦郡辺見村の按針塚(三浦按針夫妻供養塔)に一対の石灯籠が寄進され、現神奈川県横須賀市西逸見の県立塚山公園内にあります。
按針町の人々の按針を偲ぶ心は衰えることがなかったことを物語っています。
1840天保11年「日本橋按針町寄進の打敷」を按針没後220年法要のため按針町から浄土寺に寄進(非公開)
日本橋按針町(現・日本橋室町1丁目あたり)から豪華な刺繡が施された打敷(仏壇を飾る装厳具の一種)は表面は煌びやかに鳳凰や龍のようなものが描かれて、金糸で織られ、裏面は白地に「按針町家主中 同組魚問屋中 同仲買中 町内長家中」と書かれています。長年知らずにしまわれていたとのこと、経年より黒ずんでしまったそうですが、華やかに立てられた面影が残っているそうです。
日本橋按針町の名の由来は三浦按針屋敷が江戸初期にあったということを、町民は忘れず供養をしていたことが伺えます。
1605年イエズス会報告には「江戸とその近郊に7・8人のイギリス人とオランダ人が住んでおり、彼らはその地の住人としてすでに自宅と家族を擁している」とあります。
按針が屋敷を与えられたのも日本での結婚もこの頃だと考えられています。
こうした縁から死後約260年もの間を経て1881明治14年6月29日付けの「東京横濱毎日新聞」に「東京日本橋按針町の人民は、其居宅地たりし故を以て、寛永年間より毎年3月、白米を8斗(米2俵)宛を墓前に供へ、法事に営み来たりし元治元年以来、米を代償に改め、今に怠らず之を供酢すといふ」と記載されています。
寛永年間は1624~1645年で、徳川幕府将軍家光の頃にあたります。元治元年は1865年徳川幕府将軍家茂です。
三浦按針と徳川家康の絆から徳川幕府の基礎構想が固まった!
『皇帝(大御所徳川家康)の前のウィリアム・アダムス』ダルトン・ウィリアム著「ウィリアム・アダムス 日本での最初のイギリス人」より
1608慶長13年家康の外交顧問として重用され、三浦按針の名と逸見村220石あるいは250石を与えられ旗本となりました。
異例の外国人領主の三浦按針は軍事技術や航海術・西洋船の操舵、建造・世界情勢の把握・他国との交易に多大な貢献をしていました。
1872明治5年貿易商ウォルターズによって発見された按針塚があった浄土寺になぜ埋葬されたか?
「新編相模国風土記稿」では按針は『我市せば、東部を一望すべき高の地に葬るべし、さあらは、永く江戸を守護し将軍家のご厚意を泉下に報し賜らん』と遺言したそうです。埋葬が按針の強い意志があったのです。
しかし、この按針塚は草木が生い茂っており、ウォルターズによって発見され、在イギリス人向け新聞「ザ・ファーイースト」で紹介されるまで埋もれていたそうです。
1874明治7年・1888明治21年・1902明治35年に改修されて現在に至っているそうです。
1921大正10年「按針塚修理及び保存ノ概要」に1905明治38年調査で遺骨は発見されませんでしたが、「髭髪等遺物ノ埋蔵シアリシヲ以テ『アダムス』氏ノ墳墓タル確保を得たり」との記録があるようです。1923大正12年に国指定史跡となっています。
1582年生忠勝と1564年生按針は18歳違い、2人が出会った頃は1601年以降?
1600慶長5年4月19日リーフデ号が大分県の筑後に漂着し三浦按針36歳が捕虜として、徳川家康に大阪で5月12日に尋問を受ける。ここで、2人の信頼関係が始まりました。
向井忠勝18歳
1604慶長9年家康の命令で三浦按針40歳が80tの西洋船を建造する。この時、忠勝22歳も一緒に仕事をしたと思われます。
1605~1608慶長10年~13年按針41~44歳で1200tの西洋船を建造する。外交顧問役として、逸見・平戸を何度も往復することになります。忠勝23歳~26歳も建造に関わり、按針から学んだ知識は計り知れないと思われます。
1616元和2年徳川家康死去によって、2人の繋がりは切れてしまいました。忠勝34歳、按針52歳の時でした。
1620元和6年按針平戸で56歳で死去しました。忠勝38歳の時でした。
忠勝は按針から得た知識は、安宅丸建造や伊達政宗のサン・ファンタ号建造に活かされました。
この2人の海の男たちは「見知らぬ国へ、船に乗って漕ぎ出していきたい」という夢を持ち続けていたのではと推測し、そのことにロマンを感じずにはいられません!