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歌舞伎発祥の地と言われる中橋南(現京橋1丁目辺り)説を、疑ってみた!

江戸の歌舞伎発祥の地については「旧京橋川のほとり」に碑が設置されていますが、これは中橋南に設置する場所がなく止むを得ない処置であることは周知の通りです。2021年5月12日にブログ名「銀造」さんが『江戸歌舞伎発祥の地 中橋南地は何処』というタイトルのブログを掲載し、創業安政元年(1854年)の刃物専門店「西勘」(中央区京橋1丁目千疋屋の隣)に「歌舞伎発祥の地」という看板(のれん?)があることを記述しています。私は京橋界隈のような狭い街並に歌舞伎小屋・浄瑠璃小屋・操り人形小屋・茶屋などを含む大型のエンターメントゾーンがあったという説に疑問を持ちそれ以来、「当時の海側(楓川の東側に相当する地域)辺りにあった」のではないかと考えました。

京橋図書館発行の「郷土室だより」の中に歌舞伎発祥の地は楓川の東側という説明を見つけましたが、この指摘に私の説は正しいのではないかと思うようになりました。証明するために、「江戸名所図屏風」で確認しようと思いましたが手元になく、入手可能な出光美術館のショップはコロナ禍のため 約2年間休業中であり、入手困難が継続していました。コロナ禍が下火となり出光美術館もやっと開館したので2~3ケ月前に購入し、郷土室だよりの説の確認しました。

京橋図書館発行の「郷土室だより」第71号・第72号

京橋図書館発行の「郷土室だより」第71号・第72号 歌舞伎発祥の地と言われる中橋南(現京橋1丁目辺り)説を、疑ってみた!

中央区立京橋図書館が発行していた「郷土室だより」第71号・第72号に歌舞伎小屋発祥の地に関する記事がありますので、そのオリジナル性を汚さないように転記します。。

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(郷土室だより 第71号)

江戸図屏風の中には図上部の中央にひときわ太く描かれた水路ー紅葉川の対岸の「松下中務中屋敷」の辺りに、芝居小屋・遊女屋・操り人形芝居小屋・銭湯などが”杭上家屋”の形で極彩色で描かれています。杭上家屋とは水辺から沖に杭を打ち込んで、その上に家屋を立てた形式のもので、水上住居とも水上家屋と呼ばれます。(yaz注記: 東南アジアなどで良くみられる高床式住居と同じです)

(郷土室だより 第72号)ここで先号に続いてふたたび「江戸歌舞伎」に話を戻しますと、その発祥地は水陸交通の中心地”中橋交差点”の一角にあったことになっています。

「中央区の文化財/史跡・旧跡・文化財」(中央区教育委員会刊)の【旧跡】の「江戸歌舞伎発祥の地」の説明を見ますと、次のように書かれています。次のパラグラフを参照して下さい。

久安橋東にあったらしい「歌舞伎小屋」

久安橋東にあったらしい「歌舞伎小屋」 歌舞伎発祥の地と言われる中橋南(現京橋1丁目辺り)説を、疑ってみた!

「東部の劇壇の最古の伝統と最高の地位を担った中村座が南地に太鼓櫓を許されたのは寛永元年(1624年)2月15日である。中村座の始祖猿若勘三郎は・・・・・・中橋南地には中村座のほか人形操り座・浄瑠璃座などの小屋があって賑わっていたが寛永九年(1632年)5月にお城に近いという理由で興行物は一切撤廃され禰宜町へ移り、のち堺町に転じた。・・・・・・・

寛永九年(1633年)当時の「寛永図」の周りには芝居小屋などはなく、・・・・・「江戸図屏風」に描かれたような歓楽街は見当たりません。・・・・・・(yaz注記:「江戸図屏風」の歓楽街は「木挽町」の歌舞伎小屋を指しているという説がありますが、これが久安橋東側ではないでしょうか?)

西欧の諸都市では劇場はその都市の中心に建てられるのが一般的です。現代日本の場合もそれにならって、都心や副都心に劇場が集中しています。しかし約4世紀前の日本では劇場や歓楽街は都市の中の「川の水辺」にしか造ることを許されませんでした。・・・江戸のような隣海都市では川の水辺ではなく、海岸や埋め立て地の岸にそうした施設をつくることが許されました。

その場所は前号で紹介したように、初期の江戸では江戸前島の東岸に杭上家屋をこしらえそこに芝居小屋・遊女屋・操り人形芝居・銭湯などの施設を作りました。・・・・歓楽街は江戸図屏風に描かれたように、現在の久安橋の東側に相当する場所だといえましょう。

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江戸名所図屏風制作時期については諸説あり、今回の異聞では制作時期は寛永期(1632年~)と仮定します。江戸名所図屏風の絵画表現を丁寧に検討していた諏訪春雄氏によれば、この屏風の制作時期は寛永期(1624~1644)の前半(1624~1633?)の作品とのこと。寛永元年(1624)に猿若座(後の中村座)の猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が中橋南地で櫓をあげ、寛永九年(1633年)には禰宜町に移転していますので、屏風に反映されているか否かは微妙なところですが、禰宜町への移転前の時期と考えると久安橋南の歓楽街は木挽町の森田座を含むものではなく中橋南地の歌舞伎小屋と考えてよいのではないでしょうか?。木挽町の山村座の旗揚げは1642年、森田座は1660年ですから、屏風には反映されません。従って歌舞伎発祥の地=「中橋南」は久安橋東と私は断定しました。

注: 東京大学名誉教授・群馬県立歴史博物館名誉館長の黒田日出男氏は、「正保・慶安年間(1644~1652年)から明暦の大火(1657年)」に制作されたと判断しているので私の仮定とは相いれません。

今度久安橋を渡る時には、密かに「六方」を踏んでみようかな! たった、たった・・・・・・

参考文献:

1. 「江戸名所図屏風」と都市の華やぎ 出光美術館編・刊

2. 中央区沿革図集(日本橋・京橋編)

3. 郷土室だより 第71号・第72号(東京都中央区立 京橋図書館編集・発行)