どこに消えた。賀茂真淵(かものまぶち)の県居(あがたい)跡。
確か、ここにあったよな。
通りを間違えたのかな。
どこに行ったんだろう。
賀茂真淵が晩年居を定めたのは、久松警察署から程近い久松町交差点付近。
ファミリーレストランが入るビルの壁面に、中央区教育委員会設置の案内板が掲げられていたはずだ。
仮に、ビルの改装の際に外されたとしても、歴史的な物事の案内板なのだから近くに移されているはず。と思いながら周辺をぐるぐる探し回った。
見つからない。かくなる上は、直に店の人に尋ねてみるか。
「お忙しいところ失礼します。」
「あのォ、たしか店の外の壁に、賀茂真淵の県居(あがたい)跡の案内板があったと思うのですが・・・。」
「あっ、国学の四大人(しうし)の賀茂真淵です。」
なんか、異次元の言葉を言っている気分になってきた。
うーん、警戒している。絶対、変なやつだと思われている。
「えーと、教育委員会の看板でして・・・。」
私、怪しい者ではないんです。
「あっ、お店リニューアルしていますよね。何年位前に変えましたか。」
焦るあまり、とんでもない方向に入ってしまった。
ビルの外装の改築と、入居店舗のリニューアルは必ずしも一致しないのに。
店員さんは、わざわざ厨房の奥に入って、ベテランの方に聞いてくださいました。
『もう5年くらい営業しています。』
「はいッ、お忙しいところ、ありがとうございました。」
冷汗三斗(れいかんさんと)。
はあっ、シウシ? コクガク?
一体全体、アガタイって何よ。
今時、こんな日本語つかうやつがいるかよ。
ぁあ、うっせー、うっせー。こんなの知らなくたって、生きていけます。
説明しよう。
「大人(うし)」とは、地位や身分の高い人や、学者や師匠を敬っていう言葉である。尊敬の意を込めた先生ってところかな。
「国学の四大人」とは、江戸時代の国学の四大家。
荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵、本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(ひらたあつたね)をいう。
苦手な人は、この辺の名前が並ぶだけで、「もうダメ。頭が痛い。」ってなるんだろうな。
妻は日本史専攻だったはずなのに、「眠くなっちゃう」ときた。
「県居」とは、田舎住まい、田舎暮らしという意味を持つ。
賀茂真淵は、万葉集などの古典研究を重視し、古代日本人の精神を探求。
国学・古典学の礎を築いた。
特派員の写楽さいさんが「2019年6月1日のブログ」で県居についてまとめられています。
真淵は江戸に出てからは、御三卿の田安宗武に和学で仕えた。
教育者としても優れ、多くの門人を輩出している。
隠居して日本橋浜町に居を定めたのは、明和元年(1764年)。
その家屋や庭の造りを田舎風にして、県居と名付けた。
県居に住まう先生として、門人達は「県居の翁」と呼び、県居は真淵の号となった。
あがた居の茅生(ちふ)の露原かきわけて
月見に来つる都人かも
門人を招いて月見の宴を催した折の歌である。
「県居の大人」は、その庭に研究の対象としていた万葉集の歌に詠まれた植物を収集し植えていたという。
さて、時は江戸の中期、浜町界隈はその頃、鄙びていたのだろうか。
第十代将軍、徳川家治の治世である。
江戸の人口は膨張し、ロンドン、パリをも凌駕する100万都市として勢いづいていた。
茅が生い茂る様子を探すのは、なかなか難しい。
浜町公園の入口近くの草むらが、県居の庭を想起させる。
清洲橋通りの歩道路面に、隅田川のレリーフが嵌め込まれていた。
茅の茂る大川端は、江戸の風情を探す手掛かりとなるものである。
久松町交差点の明治座寄りに、小ぶりな周辺地図があった。
その中に県居の跡と記された場所があった。
現地を見ること。現場で確かめること。
東横INN日本橋浜町明治座前店の後ろの位置。
7月現在、当該位置には駐車場だけが確認できた。