考察 数寄屋橋界隈 ②
~ 君の名は・日劇 ~
リモートで、愛する中央区をナビゲートします、rosemary sea です。
シリーズでご案内します「考察 数寄屋橋界隈」、今回は第2回、「君の名は」そして「日劇」をご紹介します。
それでは・・・
数寄屋橋の碑
このシリーズ第1回でご紹介させていただきましたが、数寄屋橋公園には
「数寄屋橋 此処に ありき 菊田一夫」
と書かれた『数寄屋橋の碑』があります。
※ 冒頭の画像は、石碑の全体像です。
なぜこのような碑がここにあるのか、それは菊田一夫さんの代表作・ラジオドラマ「君の名は」の舞台となりましたのが、数寄屋橋でしたからです。
最初に、菊田一夫さんにつきまして、考察させていただきます。
菊田一夫さんは・・・
2020年のNHK連続テレビ小説「エール」でも描かれていましたね。
「エール」は作曲家・古関裕而(こせき ゆうじ)さんをモデルとしたフィクションです。
古山裕一(こやま ゆういち)を窪田正孝さんが演じましたね。
その仕事仲間として、池田二郎(いけだ じろう)、劇作家・演出家として登場しました人物、こちらのモデルが菊田一夫さん、その人でした。
北村有起哉(きたむら ゆきや)さんが演じていました。
菊田一夫さん(1908ー1973)は、横浜市生まれ。
5歳で菊田家の養子となりましたが、そこからも波乱万丈の人生。
その後、働きながら文芸の道へ、そして劇作家へ。
戦後、古関裕而さんと、ラジオドラマ・映画・演劇などでタッグを組み、ヒットさせました。
その中にラジオドラマ・映画で有名な「君の名は」があります。
「君の名は」は・・・
脚本・菊田一夫さんのラジオドラマとして1952年に放送され、大人気となりました。
戦中の昭和20年5月24日、東京に大空襲があった夜、出会ってしまった氏家真知子(うじいえ まちこ)と後宮春樹(あとみや はるき)。
逃げて逃げて、二人がたどりついた先は、銀座の数寄屋橋の橋の上。
そこで、生きていたら半年後の11月24日、この橋の上での再会を、と約束します。
春樹は「君の名は」と訊ねますが、真知子は答えません。お互い名前も知らない関係に。
半年後には二人は再会できませんでした。春樹は橋の上で待ちますが、真知子は行くことができませんでした。
その1年後の11月24日、会うことができて、やっと名乗り会いました。
しかし真知子は既に別の人と、はからずも婚約を・・・。
・・・まさに究極のすれ違い、もどかしさの極致、とてもやきもきするドラマです。
このドラマはその後映画化され、1953年9月に第一部、同年12月に第二部、1954年4月に第三部が公開されました。(真知子:岸惠子さん・春樹:佐田啓二さん【中井貴一さんのお父さん】)
また、1962年・1966年・1976年・1991年と、4度テレビドラマ化されています。
ここでは、ロズマリが関わりました1991年4月からのNHK連続テレビ小説「君の名は」につきまして、より詳しく述べたいと思います。
NHK連続テレビ小説「君の名は」は・・・
1991年(平成3年)4月1日から1992年(平成4年)4月4日まで放送されました。
原作はもちろん、菊田一夫さんです。
真知子は鈴木京香さん、春樹は倉田てつをさんが演じました。
鈴木さんはこの作品で初のヒロインを演じ、ここから注目されることとなりました。
倉田さんは仮面ライダーBLACKの主人公・南光太郎を演じた方です。
千葉県野田市にオープンセットを約1億円かけて製作し、主にそこでロケを行いました。
画像は第一話の、焼けた家々の撮影シーンの現場、1991年1月13日。
真知子が実家へ向かうと、付近は既に空襲による被害で焼けていました。
「お父様、お母様?」と高台から家のあった方へ走り寄りますが、残されているのは見覚えあるわが家の門柱のみ。
門の中を見渡しますが、何も見つかりません。
すると、門の外の道を人が歩いています。
駆け寄ると、それは乳飲み子を抱いた女性でした。
子をのぞき込み、真知子は父母の行方を訊ねます。
しかしその女性は正気ではなかったようで、何も答えてくれません。・・・
・・・このようなシーンの撮影風景です。
ですが、このほとんどは1991年4月1日の第一話放送には使われずにカットされていました。
上の画像も野田オープンセット、数寄屋橋周辺を再現した撮影セットです。
左奥に見えます白い建物、これは日本劇場のセット。
開場当時は窓はステンドグラス、床や壁は大理石、となっていたそうです。
日本劇場は・・・
通常「日劇」と呼ばれていました。
画像は現在の数寄屋橋交差点。
中央の尖った白い三角屋根の建物が、数寄屋橋交番。
その後方、左に2棟、右に1棟、有楽町マリオンです。
これが日劇の建っていたところ、建て替えられても面影が残っています。
日劇は、昭和9年(1934年)、有楽町に開場されました。
レビューやショーを開くための場としまして、客席数が2000席以上の大劇場でした。
のちの専属舞踏チーム「日劇ダンシングチーム」はここで結成され、踊りました。
また、「日劇ウエスタンカーニバル」なども人気を博しました。
残念ながら施設の老朽化を避けられず、遂に昭和56年(1981年)に地域再開発のため閉館となり、そこに昭和59年(1984年)、複合商業施設の「有楽町マリオン(有楽町センタービル)」が建てられました。
名称のとおり千代田区有楽町側になりますが、戦前当時から数寄屋橋の橋から見える景観のひとつであったようです。
数寄屋橋公園
銀座5-1-1
東京メトロ銀座線・丸ノ内線・日比谷線 銀座駅 C2出口を出て戻るかたち、すぐです。(中央の黄色部分)
なお、「現在地」と書かれた下の黄色く塗られた部分も、晴海通りに分断されていますが、数寄屋橋公園です。
「燈臺(とうだい)」の像や、宝くじの「銀座チャンスセンター」などがあります。