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両国から茅場町・八丁堀へ歩く(江戸時代)

両国・新大橋方面から茅場町・八丁堀へ行く場合、車であれ徒歩であれ新大橋通りを通って鎧橋または茅場橋に出るのが一般的です。江戸時代は浜町・蛎殻町はほぼ全域武家・旗本屋敷であったために一般人(町人)は気楽にそこを歩くことは出来ませんでした。例えば新大橋付近から南茅場町(現証券取引所辺り)に行こうとした場合、次のルートを採用したと予想されます(江戸時代の町名で表します):

「新大橋(両国橋) →元柳橋→村松町南→久松町北→左折→浜町河岸を南へ→高砂橋を渡る→高砂町の間を西へ→和泉町→堺町→葺屋町→西堀留川に突き当たったら、左折し西堀留川河岸を南へ→思案橋を右に見て小網町二丁目へ→日本橋川の鎧河岸を南へ→鎧の渡しで→南茅場町へ」

GoogleMapで「江戸時代のルート追跡」をすると、『2.3Km、徒歩時間30分』という結果となりました。遠いですね!遠い他に問題は「鎧の渡しは夜7時には運行停止」でした。その不便さは筆舌に尽くしがたいものだったでしょう。

一方現在の新大橋(江戸時代の橋の位置は隅田川の下流にあったといわれていますが、距離・時間に大きな差はないでしょう)から中ノ橋経由新大橋通り~鎧橋の直線距離をGoogleMapで計算してみると1.2Km(16分)となり、大幅な短縮が見られます。距離は近い・夜でも行くことが出来るようになったのですから、人形町の活気が出るようになったのも当然でしょう。

鎧橋の架橋と新大橋通りの開発により、人形町は「商業の街=茅場町」と繋がることで発展のきっかけを得ることが出来ました。

 

鏑木清方作「浜町娘」は茅場町まで踊りの稽古に通っていた

鏑木清方作「浜町娘」は茅場町まで踊りの稽古に通っていた 両国から茅場町・八丁堀へ歩く(江戸時代)

この娘さんは日本橋茅場町の藤間流の踊りの師匠からの帰りで、新大橋の袂で稽古を思い出している風情です。藤間流とは、宝永年間(1704-1711)に歌舞伎舞踊の振付師藤間勘兵衛(初世)が創始しましたが、現在は勘十郎家(茅場町派)と勘右衛門家(浜町派)に分かれています。三代目勘十郎は江戸茅場町に住み、「茅場町の藤間」と呼ばれていました。

娘さんの背景には、新大橋と深川安宅町の火の見櫓が写っており、新大橋の袂辺りに佇んでいることが判ります。師匠の家を特定できませんが、茅場町2、3丁目の路地にあった(路地から三味線の音を聞いた記憶があります)のではないかと想像します。新大橋から鎧橋までで徒歩30分ですから、師匠の家まで片道40分・往復1時間20分、着物姿で通うのは大変であったでしょう。車だったら10分以下で到達するのですが。