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日本橋地区の水道インフラ(江戸時代)

2021年10月に銀座地区の水道インフラについて紹介し地理的な分析をして自然放流されていることを証明しました。銀座地区には玉川上水が、日本橋地区には神田上水が引かれていることは周知の事実ですが、共に自然放流で水の供給がなされていました。今回は日本橋地区の水道事情です。

生活用水の確保(水道または井戸水や買水などによる)は切実であったようです。節水は徹底的に行われ、町人に限らず武家を始め全ての住民は水道の水を飲料以外の目的に使いませんでした。雑用水は全て井戸水を使っていました。

江戸の水道には浄水場のような沈殿・濾過設備はなく排水管は檜や松で作られた木管でした。日本橋の木桶が設置されていた部分の勾配を計算してみると、銀座同様に3/1,000の勾配になっていることが判ります:

西河岸~通町通り(現銀座通り)の標高差→ 3.12m~3.8m=68cm

西河岸~通町通り(現銀座通り)の距離→約200m

勾配=3.4/1,000

 

木桶による配水状況

木桶による配水状況 日本橋地区の水道インフラ(江戸時代)

水道の配管状況を示す切絵図(樋線図)で水道の配管状態を見てみましょう。道路下に埋めた木樋は管網をなしていて、途中に木製の枡を設けて上水は常に自然の勾配に従って樋管の中を流れています。通りに面したところにある溜枡からは共同用に、さらに各家に桶で呼び込んだ上水井戸からは各戸専用にツルベでくみ上げていました。

木桶の水道が引いてある地域でも上流の水源地に大雨が降るとすぐ濁水に見舞われました。逆に日照り続きの渇水期には上水が断水・減水状態になることもありました。

図は木挽町の長屋での配水状況を示しています。

当時は水道の蛇口のようなものはありませんので、自然放流の最後はどうなっていたのでしょうか?使用されなかった余剰水は、日本橋の場合には配水系統の末端にあたる呉服橋内の銭瓶橋の左右とか、一石橋のなどにあった上水吐口から河川に放流されました。

この吐口のところで幕府の鑑札を受けた水舟業者がこの水を仕入れて、伝馬船に組み入れ飲料水に困っていた本所・深川の住民や廻船に売水していました。

「ありがたさたまさか井戸で鮎を汲み」

(参考文献)

水談義 堀越正雄 論創社 1993年刊