月刊日本橋令和3年2月号「江戸の化学」
宇田川榕庵・川本幸民の功績をご紹介!
「月刊日本橋]」が大好きな桜やよいが今までの特集記事を読み返していた時に目に留まった記事は「江戸の化学」でした。
江戸時代幕末に日本橋に縁がある宇田川榕庵と川本幸民は日本の化学の基礎を築き、その発展におおいに寄与した人物でした。
この2人がいたお陰で、明治での化学面における文明開化がスムーズにいったという表現は過言ではありません。
化学はばけがくと言われているように、人間が生活を豊かにすることに使われるように研究・発展してきたはずでしたが、近年は化学兵器として使われ、我々人間の命を脅かす存在になっています。
宇田川榕庵・川本幸民のような江戸時代の初心に立ち返って、人に役立つ使い方ができる化学の発展を願わずにはいられません。
『舎密』という一般的名称がその後、『化学』という言葉は幸民が使った!
我々が現代使っている「化学」という言葉を日本で初めて使ったのが幸民でした。
1860安政7年『万有化学』という化学書の出版を申請しています。
国家機密だと判断され、検閲の上却下され内容を知ることはできません。
『化学新書』『化学通』『化学読本』などの翻訳をして、幸民は統一して化学の言葉を使っています。
1854年に日本やってきた宣教師が考案したという説があり、中国で定着したのち日本に入ってきました。
幸民は中国からの漢書を通して『化学』という言葉に出会ったと考えられます。
当時に幸民は西洋文明を取り入れる窓口機関として設置された蕃調所の教授職にあり、新しく購入された漢語の検問も行っていました。
幕末に開成所【蕃所調所の後身】で幸民の『化学新書』が化学教育の教科書に用いられました。
明治の学制の教育制度で『化学』の化学名が採用されました。
そのことにより、徐々に『化学』が定着していきました。
日本橋生まれの化学の祖としての宇田川榕庵の功績
1798寛政10年宇田川榕庵は大垣藩医(江戸詰)江沢養樹の長男として日本橋呉服町(八重洲1丁目・日本橋1~2丁目)に生まれました。榕庵の父親が学んだ医学の師津山藩医宇田川玄真の養子になったのは14歳の時でした。
1814文化11年榕庵17歳の時、将軍拝謁に江戸に来た出島オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフ一行に養父と面談した機にオランダ語を学びながら蘭学の道を歩み始めました。
洋書を翻訳して、目に見えないものを可視化することを研究しながら化学を伝える!
卓越した語学力を身に付けて沢山の洋書を翻訳や著述を始めました。
博物学ー幼い頃から植物・薬学に興味がありました。
〇19歳でコーヒーの産地と効用『哥非乙説こつひいせつ』を説きました。
〇1819文政2年にイギリス産エプソン塩(硫酸マグネシウム)・中国凝水石の下剤効用に関する実証的内容を記した『諳厄利斯潟利塩考』著
〇1822文政5年『菩多尼訶経』刊行
〇1833天保4年『植學啓原』刊行
日本で最初の本格的な植物学書で、植物の構造、植物体の成分を科学的に取り扱っています。
「弁物は今日の博物学、窮理は物理学、舎密は化学にあたる。自然を研究するということは、まずは観察し、その形態や性質を明らかにする博物学から始まり、次いで植物の成長や老成の研究をする物理学、最後に万物を構成する元素を究め化学があり、自然の最も奥深いところを研究することが化学である』と榕庵は述べています。
〇1837天保8年『舎密開宗』刊行
明治に入るまで最高の化学の教科書として使用されました。近代科学の父と称されたラヴォアジェの学説を翻訳して、榕庵の解説も加えられました。
〇榕庵が作り出した化学用語
「酸素」「炭素」「ヨウ素」「亜鉛」「塩素」元素の名前
「硫酸ナトリウム」「硫化水素」「硝酸カリウム」「炭酸ガス」「アンモニア」
「アルコール」
「溶解」「飽和」「結晶」化学反応を表す用語を考案しました。
シーボルトとの交流
1823文政6年ドイツのシーボルトはオランダ商館付医師として出島にやってきました。
〇榕庵は嬉々として自作の植物標本や写生画をシーボルトに送っています。
〇1826文政9年オランダ商館長将軍拝謁随行の際、江戸長崎屋で対面します。別れるあたって、シーボルトからは『我が好学の友へ」との献辞を記した博物学書や植物学書、顕微鏡など、榕庵からは植物の標本を多数贈りあいました。シーボルトは日記に「宇田川榕庵から多数の乾唶植物を贈られ標本は特に上質であった」と記しています。
〇シーボルト『日本植物誌」刊行に榕庵との交流が日本の植物が広くヨーロッパで紹介されたことに繋がっています。
16年間の全国40ヶ所の温泉効能調査研究
養父玄真から温泉の水質調査を命じられました。
熱海・薩摩の硫黄島などの温泉・冷泉の水をもらって、性質を科学的に分析しました。
〇まずは色や臭いを観察し、自ら飲んで味を確かめ、浮き秤を使って比重を測定、薬品や熱を加えて反応を克明に記録しました。
〇その成果を『諸国温泉試説』と『温泉雑記』にまとめました。
〇分析項目は色・比重・含有成分が記載
〇酸泉・塩泉・硫黄泉・鉄泉の4種類に分類、温泉の適応についても明記されました。
それまで言い伝えであった温泉の効能を初めて科学的に検証した業績は高く評価されました。
日本橋在住蘭学者川本幸民が化学を学問的地位を確固たるたるものに!
1810文化7年摂津国三田藩(兵庫県三田市)藩医の家に生まれました。1835天保6年江戸で藩医となりました。
知れば試さずにいられない性格の幸民は、
〇日本最初のマッチを考案しています。1948嘉永元年日向に置いただけでも発火する危険な黄燐マッチでした。
〇1952嘉永4年に日本で初めての写真撮影の銀板光画に成功
薩摩藩江戸詰藩士向け学塾の講義でオランダ人のファン・デル・ベルの「理学原始」に基づき幸民が話したことを門人が筆記した『遠西奇器述』1854に直射影鏡、ダゲレオタイプ写真述の解説が収められています。
〇ビール製造
文献記録がなく、言い伝えではペリー来航の際にビール製造方法を得て、嘉永6年八丁堀(茅場町)の自宅で炉を築き製造したという話もありました。
ドイツの農学者シュテックハルトの「化学の学校」のオランダ語訳を翻訳した『化学新書』に記されていたビール製造理論の基本を無類の酒好きの幸民が試しに醸造しようと思い立ったのも当然なことなのかもしれません。
開成所(後の東京大学)で後輩の指導に力を入れる
1865慶応元年に開成所の教授筆頭となり、長崎精徳得館付属分析窮理所の理化学専門教師オランダ人・ハラマタを自校に呼ぶことを決めましたが、幕府機能不全のため発令が出ず開成所での講義は叶いませんでした。
幸民は独学で外国語を習得・実験を繰り返しながら知識を自分のものにしていくそれまでのやり方に固執することなく、後進の育成に力を惜しみませんでた。
幸民の日本科学史における貢献は、研究対象としての化学だけではなく、学問としての化学を成立させました。
今、私たちは当たり前のように化学の共通認識概念をもつことが出来ています。
何にでも興味を持ったお陰で化学以外の言葉考案や欧米の蒸気船などの技術を日本に紹介
【言葉を考案】
「時間」「午前」「蛋白」「分子」「待機」「空気」「水蒸気」
「軽金属」「ブドウ糖」「尿素」「化学変化」「気象」
【欧米の技術】を紹介
「蒸気船」「飛行船」「精糖」「製塩」「電信」「鉱山開削」「兵器」
1774安政3年『解体新書』が刊行され広く蘭学が周知されていった後に続く人材として、24年後生を受けた宇田川榕庵と36年後に生を受けた川本幸民が蘭学のみならず、日本の化学発展を推し進めたのです。
(月刊日本橋の記事掲載の承諾をいただいております)