中央区 忠臣蔵一考察
毎年師走になると赤穂浪士による吉良邸討入り事件、俗に言う忠臣蔵が注目されます。
当時は片手落ちな裁定を下した徳川綱吉や側用人柳沢吉保へ対し大っぴらな批判は口に出来ません。
生類憐みの令などお上に対する不満や浅野家への同情の感情が、特に江戸庶民に溢れていました。
半世紀たって赤穂事件を題材にして演じられた仮名手本忠臣蔵も遠慮から実名等を隠しての演目です。仮名は47文字で浪士の数を表し、お手本となる武士の大石内蔵助良雄(よしたか)は忠臣であるの意味です。
大衆の喝采を浴び、歌舞伎や講談、浪曲で創作話も演じられ、また偽物の登場など尾ひれも付きます。
吉良上野介義央(よしなか)は必要以上に極悪人にされました。
明石町には浅野内匠頭屋敷跡の石碑があります。東京都指定文化財です。
播磨国赤穂藩浅野家の上屋敷跡です。上屋敷とは参勤交代で江戸出府の大名が住む屋敷です。
敷地は約8900坪で西と南が堀と記されています。あかつき公園と築地川公園は元々は川です。屋敷の角に近い場所に石碑があるようです。以前石碑はあかつき公園の端の保健所との境にありました。
常陸国笠間から移った播州浅野家三代目 浅野長矩(ながのり) は祖父と同じ官職名、内匠頭(たくみのかみ)を与えられます。この場所は内匠頭長矩の産れた地でもあります。
元禄14(1701)年、天皇家へ年賀挨拶をした返礼で江戸へ来る勅使の為の接待御馳走役に内匠頭は任命されました。礼法指南役は 吉良上野介義央です。
18年前にも内匠頭は同じ役目を経験します。その時は家老(内蔵助の叔父)が江戸にいて17歳の内匠頭を補佐します。今回は家老(大石内蔵助)が赤穂にいて不在のため、またこの正月、天皇家へ挨拶に行ったのは上野介で江戸に戻る2月末迄、自分で判断します。
内匠頭は大名で上野介は旗本に過ぎませんが位は上野介が上です。幕府の儀礼を司る重職の高家である吉良家が上司で大名の浅野家が部下。年下(上野介60歳内匠頭36歳)の内匠頭はボンボン育ちで付け届けなど気を回すことはしません。饗応費用は高額で前年は千二百両かかりました。内匠頭の予算は七百両です。老中からの削減指示があったと書れた日記もあります。派手な豪華さを望む上野介は不満を持ち、自然不仲になります。
映画やドラマでは松の廊下で上野介が ”この田舎侍めが” と言いながら扇子で内匠頭の頭をひたひたとたたき逆上した内匠頭が切りかかります。実際は内匠頭は廊下に長い間控えていて勅使到着を待ちます。遅れてきた上野介に梶川与惣兵衛が段取り確認で言葉を交わします。そこへいきなり背後から ”この間の遺恨、覚えたか!” と内匠頭が切りつけます。背中に一太刀、驚き振り向く上野介に三度振り下ろします。梶川が羽交い絞めして止めました。
内匠頭は気鬱だったとされます。NHKは松の廊下と当日の天気を調査します。非常に薄暗く、雨模様でどんよりしていたとの結論です。幕府と上野介との間の板挟みで追い詰められたのでしょうか。
綱吉は母桂昌院を過剰に大事にし、位を従一位に奏上して貰う為この接待を重要視します。大事な日と身を清めに風呂に入っていた綱吉は激怒します。風呂場で即日切腹、領地没収を決定します。綱吉の怒りに気を回した柳沢吉保が指示したと見る学者もいます。上野介は神妙と御咎め無しの片手落ち裁定。吉保は上野介と仲良しです。室町以来の武士の掟喧嘩両成敗を破り、浅野家への同情と幕府への反発感情が起きます。
芝の田村邸へ預けられ、取り調べられた内匠頭は、その日、大名なのに庭先で切腹させられます。
内匠頭の妻の阿久利がいた上屋敷は、翌々日の17日には明け渡たされました。
浅野家上屋敷が没収された後も吉良上野介の江戸での住まいは呉服橋門の外でした。今の呉服橋交差点の八重洲寄りです。屋敷の状況を探るためでしょうか江戸に出てきた赤穂浪士が近くに住みます。
堀部安兵衛は京橋水谷町(銀座一丁目)の細井広沢宅に住んだことがあります。数年後に水谷町自体が八丁堀に移転して(火事でしょうか)亀島橋に安兵衛の碑があります。
片岡源五右衛門、貝賀弥左衛門、大高源吾、矢頭右衛門七は南八丁堀付近(入船と湊)に潜みます。
片岡源五右衛門は美少年だったそうです。内匠頭の切腹時遺言を託された一人です。
貝賀弥左衛門は吉田忠左衛門の弟。内蔵助から預った誓紙を同士に返し本心を確かめる役割をします。
大高源吾は小野寺十内の甥で岡野金右衛門の従妹です。俳諧と茶の湯が得意でした。
矢頭右衛門七は赤穂開城の会計残務をした父の病死で意志を引き継ぎ加盟します。17歳でした。
江戸生れの江戸育ち村松喜兵衛は江戸詰めで小田原町(築地二丁目)に住んでいました。
その後9月に上野介の屋敷は呉服橋門から本所松坂町へ移転を命じられます。片手落ちとの批判をかわすためとか、綱吉は上野介が討たれてもいいと考えていたとか、隣接大名が討入りに巻き込まれるのを恐れて移転を訴え出たとか言われます。ただ大名屋敷の移転は日常茶飯事で、この時も数軒が同じ時に移転します。結果、赤穂浪人達も本所界隈に移りました。
円山会議で討入りの決心を表明した大石内蔵助良雄は江戸に出て来ます。
元禄15年11月頭には江戸の石町(室町四丁目)に隠れ住みます。
旧知であった霊巌島(新川)に住む呉服商の中嶋五郎作が国学者荷田春満(かだのあずままろ)を世話していました。春満は吉良邸の茶会に呼ばれることが多く、内蔵助は慎重に情報をさぐります。
ここに同士は集まり情報の突合せや討入り日の検討を行いました。
茅場町にある宝井其角の住居跡の碑です。
松尾芭蕉の高弟ですが、芭蕉の死語は洒落風、江戸風と言われた句を詠んだ人です。
討入り前夜、煤竹売りの恰好をした俳句仲間の大高源吾と両国橋の所でばったり出会い、落ちぶれたと同情し羽織を与えます。もう会うことも無いと思い、最後に付け句をと、「年の瀬や 水の流れと人の身は」と出します。すると源吾は「明日待たるる その宝船」と返します。
”両国橋の別れ” は忠臣蔵の名場面で必ず登場しますが、其角と源吾は面識がなかったようです。
江戸庶民に好まれた其角を登場させた創作話と思われます。
本所松坂町(墨田区両国)の吉良邸跡です。両国橋や回向院はすぐ近くです。
ちなみに、そばに芥川龍之介育成の地の碑があります。彼が産れた場所は外国人居留地にあった牧場で、そこは内匠頭屋敷跡あたりでした。
刃傷事件後の夏に上野介が越してきました。そして・・・
時は元禄15年、師走半ばの14日、草木も眠る丑三つ時 赤穂浪士が討入ります。
♪江戸の夜風をふるわせて響くは山鹿流儀の陣太鼓♬ は浪曲の創作話です。
15日ではないかとも思いますが、当時の人々の一日は”明け六つ刻(午前6時)から翌日の明け六つ刻”なので、丑三つ時(午前2時)は14日ですし、内匠頭の月命日でもあります。
浪士達は火事装束です。徒党を組んでの移動を怪しまれた時、火消し役人だと言い逃れるためです。帯や鉢巻き、襷などに鎖や針金を用います。これは高田馬場の仇討ちの時、帯を切られた堀部安兵衛が苦しんだ経験からの進言です。鎖帷子も着たりしているのでかなりの重量でした。
明け方近く本懐を遂げます。当初の予定は回向院で休憩しながら上野介の息子の上杉家の追手に備える予定でしたが、関わり合いを恐れた回向院に拒否され、泉岳寺へ向かうことにします。
吉良邸から回向院へ向かった浪士達は両国橋を渡ることを諦めます。両国橋を渡って江戸市中に入ると武家屋敷が並びます。また15日は大名や旗本の登城日なので途中で何らかの争いが起きる可能性を避けるためです。江戸町奉行の服部彦七が駆け付け、江戸城へ通じる両国橋は役目上通せぬ。他の道へ回れと、暗に狭い道で襲撃に備えるようにと温情で言ったという説もあります。
追手を警戒しながら南下して一ノ橋から萬年橋へ川沿いの道を通ります。本所や深川は前原伊助や神崎与五郎、奥田孫大夫など潜伏していた浪士が沢山いて地理に明るかったと思われます。
永代橋のそばまで来た時、乳熊屋味噌店という商家が棟上げ式をしていて、当時の慣習で甘酒を振る舞います。浪士達はここで少し休憩します。後に回向院は名を下げ、ちくま屋は株を上げました。今もちくま味噌は討入り日に甘酒をふるまっています。
上記写真は夜の永代橋です。当時は位置も違うし当然夜間照明もありません。
大川の景色は浪士達の目にどう映ったのでしょうか。
隅田川遊歩道の中央区側の壁に描かれた絵です。湊橋は左上の橋です。
永代橋を渡った浪士一行は日本橋川沿いに進み湊橋(箱崎町と新川間)を渡り霊岸島(新川)に入り越前堀(新川)に沿って進みます。
そのまま高橋(新川と八丁堀間)、稲荷橋(八丁堀と湊間)と亀島川沿いを進んで湊から入船を経て進みます。この辺りは上野介が呉服橋門に居た頃に住んでいた安兵衛や片岡源五右衛門らが道案内をしたのでしょう。今の入船橋の縦の位置で築地川に架かった軽子橋(明石町)を渡ります。築地川を挟んだ対岸は旧主内匠頭の屋敷です。その時はすでに若狭小浜藩酒井氏の屋敷です。玄関付近を通れば門番等に見咎められる恐れがあり川を隔てて本懐を遂げたことを報告したと思われます。
そのまま本願寺の横を通ります。当時は今よりかなり大きな敷地です。
本願寺内に間新六の供養塔があります。新六は父間喜兵衛と兄間十次郎(上野介への一番槍)と三人で討入りに参加します。討入り後預けられた屋敷は別々の場所でした。新六は麻布の長府藩毛利邸です。江戸も中期の頃になると切腹といっても形式化していて腹を切る前に解釈人が首を落としますが、新六はおもむろに腹を切り裂き、勇敢な武士と評判になりました。
姉婿の中堂又助が三人の遺骸を引き取りに回りました。父、兄の遺骸は泉岳寺へ送られてしまった後で間に合いません。新六だけが本願寺へ埋葬されます。その理由はよく解りません。檀徒だったのでしょうか。浪士一行が本願寺を通った時、新六が槍に金銭を括り付けて投げ入れ、葬ってくれと頼んだという説もあります。
刃傷事件の前、養子先の養父と折り合いが悪く、出奔して浪人となり江戸に出ていた新六は義盟への参加を願い出ますが断られます。父は厳しく接したようですが安兵衛らの取り成しで許されます。新六は12キロ以上の重装備と雪の残った道で急ぎ足行軍した疲労で田町の札ノ辻で倒れます。だらしないと父喜兵衛に叱られ必死に立ち上がって泉岳寺に向かいました。
一人だけ可哀そうだと後に泉岳寺にも新六の供養塔が建てられます。24歳独身でした。
刃傷事件から討入りの一連の事件に江戸庶民は喝采を送ります。討入り当初は賛歌する落書きが出回ります。浪士達の切腹後は幕府や老中を非難するものが出ます。切腹の日には日本橋の高札の ”忠孝に励むべき” の文字が墨で消されます。躍起になって犯人捜しが行われますが、立替えた高札も塗りつぶされたり引き抜かれて川に放り込まれます。弱った幕府は ”親子兄弟夫婦はむつまじく” に書き換えました。
数年前、風水アドバイザーのDr.コパがラジオでリスナーの質問に答えているのを聞きました。「年末ジャンボはいつ買えばいいですか?」「あなたが江戸っ子なら江戸っ子の大好きな討入りの日に買うのがお勧め」私はそれから毎年購入していますが、いまだ本懐は遂げておりません。