桜やよい

月刊日本橋2022.9『荒汐部屋を応援したい!』と
蒼国来引退荒汐襲名をご紹介!

月刊日本橋9月号では特集に中央区唯一の日本橋浜町の相撲部屋『荒汐部屋』

〇荒汐部屋の朝稽古に潜入!〇相撲のあり方の変化〇荒汐部屋のこれまで〇荒汐部屋紹介

〇『蒼国来引退荒汐襲名 披露大相撲』10月2日開催のお知らせ

で構成されています。

以前から荒汐部屋に着目して区内幼稚園の月島第一幼稚園のもちつき会に荒汐部屋の力士が総出でボランティアで参加していらしたことを桜やよいブログに上げていました。

https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/archive/2017/12/post-4537.html

この特集記事を読んで、蒼国来引退荒汐襲名に是非行こうと思い、行ってみました。初めての国技館・相撲を見るきっかけになったことを月刊日本橋に感謝です。

 

先代親方おかみ鈴木ゆかさんの『これからの荒汐部屋の未来構想』への期待!

先代親方おかみ鈴木ゆかさんの『これからの荒汐部屋の未来構想』への期待! 月刊日本橋2022.9『荒汐部屋を応援したい!』と
蒼国来引退荒汐襲名をご紹介!

元中央区教育委員会教育委員長経験もおありです。

未来を見据えて、いつも先手を打つ姿勢には感動です。

荒汐部屋のホームページは楽しく、力士の誕生会や猫と力士のツーショットはほほえましく楽しませていただいていました。

これも鈴木ゆかさんのアイディアだったようです。

先代親方も稽古場に大きな窓ガラスを作って、外から稽古場を見ることができる画期的な取り組みでした。

荒汐部屋向いにグッズショップをオープンする準備をやっていらっしゃるとのことです。

荒汐部屋を巣立っていく力士たちの受け皿となるような後ろ立てとして働く場作りに向けて、セカンドキャリアをいかせる場として、ゆくゆくは介護を請け負う会社の運営も考えていらっしゃるとのこと。素敵な発想をもってグイグイ実現へと向けての行動を起こしていらっしゃいます。

両国国技館 令和4年10月2日(土曜日)11時30分

両国国技館 令和4年10月2日(土曜日)11時30分 月刊日本橋2022.9『荒汐部屋を応援したい!』と
蒼国来引退荒汐襲名をご紹介!
 月刊日本橋2022.9『荒汐部屋を応援したい!』と
蒼国来引退荒汐襲名をご紹介!

中央区観光協会特派員として荒汐部屋のイチファンとして行ってきました。

いつもテレビでしか見たことがなかった初めて国技館の土俵や相撲を見て感動しました。

下町トムさんの当日のブログもご覧ください。

https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=3396

橘さんのブログも合わせてご覧ください。

https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=3405

若隆景・若元春・若隆元の相撲甚句合いの手と木遣り

若隆景・若元春・若隆元の相撲甚句合いの手と木遣り 月刊日本橋2022.9『荒汐部屋を応援したい!』と
蒼国来引退荒汐襲名をご紹介!

相撲と言えば相撲甚句ですね。「土俵に輝く三つの矢」「青き空より海を越えて」作詞勇輝

歌い手 勇輝

合いの手 若隆景・若元春・若隆元

素敵な歌声と甚句の歌に心を打たれました。お相撲さんは皆さん歌がお上手です。

 

江戸消防記念会 木遣り「祝詩(のっと)」・「真鶴(まなづる)」・「手古(てこ)」を披露されました。

荒汐部屋がある中央区日本橋浜町 地元の江戸消防記念会第一区の頭中(かしらちゅう)の木遣りを先導に入場しました。纏は「いろは四十八組」日本橋浜町「に組」の纏でした。

江戸町火消しは、1718享保3年徳川幕府八代将軍吉宗の命を受け、時の町奉行大岡越前守により「いろは四十八組」が誕生したのが始まりです。

「義理と人情とやせ我慢」を信条とし現在では、木遣り、纏振り、梯子乗りなどを江戸火消しの歴史と伝統を受け継いでいる組織であります。

 月刊日本橋2022.9『荒汐部屋を応援したい!』と
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相撲のあり方の変化

相撲のあり方の変化 月刊日本橋2022.9『荒汐部屋を応援したい!』と
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「勧進大相撲興行之図」一陽齋豊国 秀の山雷五郎(右)小柳常吉(左)の取り込み

国技としての相撲の歴史は、古事記に出現したことに始まり、平安時代まで天下泰平、五穀豊穣を祈願し、宮中で行われていました。その後、神事として豊作を祈る「奉納相撲」が各地で行われるようになり、庶民の娯楽になるのは江戸時代に入ってからのことでした。

やがて強い親方の元に弟子が集まり、相撲を辞めた年寄り連中が「相撲会所」を作り現在の相撲協会と同じように運営を行うようになりました。

相撲の興行は、あくまで「勧進相撲」として、寺社の修復などの寄付を募るためという建前で行われました。

寺社奉行から許可が出ると、「蒙御免(ごめんこうむる)と書いた木札を興行場所に立て、神を呼ぶ櫓(依り代)を上げました。

相撲興行の場所は、ほとんどが寺社仏閣の境内。芝神明や深川など各地をまわる中には、椙森神社や山王旅所(日枝神社摂社)など日本橋地域の神社でも行われていたようでした。

1833天保4年から回向院が定場所となりました。

故竹内誠氏(江戸東京博物館前館長)は、「錦絵を発達させたのが、吉原・歌舞伎・相撲ではないかと思っている。つまりこれらは、江戸の三大娯楽である」(月刊『日本橋』2004年2月号インタビュー)と残しています。

江戸の庶民に愛されるようになった相撲ですが、天気の良い日だけしかできず、幕府の都合で中断することもありました。

1909明治42年の両国国技館建設によって全天候型に。商業的にも現在に続く基盤が作られました。

荒汐部屋ファンの一人として、これからも応援続けます!

最後にこれからも中央区に「相撲部屋があるの?」との問いに、胸を張って『荒汐部屋』を紹介していきたいと思います。

(月刊日本橋編集部に記事記載の承諾をいただいております)